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アメリカの鉄鋼王 アンドリュー・カーネギーの生涯

2014/08/23
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アンドリュー・カーネギー(1835-1919)は、イギリスで生まれ、移民としてアメリカにわたった後、鉄鋼業界の関連企業の多角経営で財をなした、史上2位とも言われる資産を保有したアメリカの富豪です。

「図書館の守護聖人」というニックネームで呼ばれるほど多くの図書館に財産を寄贈したほか、私立大学や教育基金などを設立し、慈善家としても知られる人物です。

その主な功績には、以下のようなものが挙げられます。

  • 南北戦争時、連合軍の鉄道および電信線を実質的に掌握していた人物です。
  • 座右の銘は「意思なきところに道は開けず」。「他人に無理強いをしてはしごを上らせることはできない」という例えを残しました。
  • 物価インフレ等も考慮に入れた場合、カーネギーは史上で2番目の富豪だといわれています。ちなみにジョン・ D・ロックフェラーが世界一の富豪とされています。
  • カーネギーの著書、『富の福音』には「財を蓄えたまま死ぬのは、恥ずべきことだ」と記されており、カーネギーは、富豪から貧民への富の分配の必要性を強く感じていました。この論理はその後、世界的富豪やビジネスマンが、チャリティーなどの慈善活動を積極的に行うことについて、多大な影響を与えました。
  • フィリピンの国家独立を実現するため、2000万ドルもの資金供与を申し出ました。
  • 黒人のための社会支援にも積極的で、ブッカー・T・ワシントンがアラバマ州に設立したタスキーギ研究所の運営にも協力しました。

アンドリュー・カーネギーの生い立ち

アンドリュー・カーネギーはイギリスのスコットランドにある、ダンファームリンという小さな町で、1835年11月25日に誕生しました。彼の父親はリネンの織物工として勤務し、また母親は靴の修理などをして働いていましたが、とても貧しい暮らしでした。

社宅としてあてがわれた住まいは一部屋しかなく、家族で暮らすというのに、台所と食卓は言うに及ばず、寝る場所も分けられないような狭さでした。

やがて1840年代後半には、織物工の父親が失職の危機に陥ったため、一家は食いつなごうと、アメリカに移民として渡る決断をしました。

アメリカ合衆国への移住

カーネギーがアメリカへと渡ったのは1848年、彼が13歳のときでした。一家はペンシルベニア州アレゲニー(現在のピッツバーグ)に居を定めました。

移住後、カーネギーは苦しい家計を助けようとすぐに働き始めることにしました。そして、綿工場でボビンボーイという女工の補助の仕事を始めました。

この仕事での彼の給料は、一週間に70 時間労働で1ドル20セントでした。これは2012年の価値で換算すると、週給30ドルということになります。

カーネギーは働いていたので学校に通うことはできませんでしたが、とても賢く、そして勤勉な少年でした。余暇は、地元の名士が少年たちのために貸し出していた、個人図書館にある本を片っ端から読んで過ごしました。

教育における本の重要性を深く理解したカーネギーは、このことを後々まで忘れず、社会的な成功を収めたあと、多くの公共図書館の設立のために多額の資金を寄付することになるのです。

独学に励むカーネギーは、もちろん仕事もおろそかにはしませんでした。

ボビンボーイのあと、電信配達の仕事に就きました。これは前職よりはるかに待遇が良く、楽しい仕事でした。アンドリューは、配達のため町中を回り、有力者とも顔見知りになっていきました。

彼はまた、独学でモールス符号の知識を得て、電信装置に触れるチャンスがあったときには操作を練習しました。こうした努力が実り、1851年に、彼は電信オペレーターに昇進することができました。

鉄道会社での勤務

1853年、カーネギーは鉄道会社に転職しました。

ここでも彼はどんどん昇進し、最終的には幹部になりました。この鉄道会社で、カーネギーはビジネスと投資について多くを学びました。この経験がこの後、大いに生きてくるのです。

投資の成功

カーネギーは収入が増えるにつれ、単にお金を浪費するのではなく、それを原資として投資をしたいと考えるようになりました。

彼は製鉄、鉄橋、不動産および製油といった、様々な企業に投資しました。その多くは成功し、それが縁で、重要かつ有力な多くの財界人とビジネス上の関係を持つことができました。

1865年、30歳で、カーネギーは「キーストン鉄橋会社」を創業しました。彼が作った最初の会社です。

彼は鉄鋼業に本腰を入れ始めました。鉄道会社で培ったネットワークのおかげで、自社で製造した鉄橋を使った線路敷設を請け負うことができた彼は、地域一帯に鉄橋を製造する工場を多く建設し、その後数年間で、彼のビジネスは大きく成長しました。

鉄鋼王と呼ばれて

経営も軌道に乗り、カーネギーは鉄鋼業に広く投資することにしました。

彼は、鉄鋼は鉄そのものよりも強度があり、鉄を使った建造物はそれほど長く持たないということを知っていたからです。鉄鋼を使えば、鉄より耐久性のある橋や線路、建物や船などを作ることができます。

彼はまた、ベッセマー・プロセスと呼ばれる、それまでより速くかつ安く鉄鋼が生産できる新しい方法についても学び、その後「カーネギー製鉄会社」を設立しました。

その会社では大規模な鉄鋼工場を多く開設したため、すぐに世界の鉄鋼市場の大きなシェアを占めるようになりました。

1901年に、カーネギーは銀行業を営むJ. P. モルガンの出資の元、「USスチール株式会社」を設立しました。J. P. モルガンは、現在でも北米有数のメガバンクであり、その出資を受けたUSスチールはその当時、世界で最も大きい株式会社となりました。

貧しいスコットランド移民であったカーネギーは、こうして、世界で最も裕福な男性の一人となったのです。

カーネギーのビジネス哲学

カーネギーは、「懸命に働くこと」そして「リスクを考慮に入れること」を重視していました。

彼は、企業に対してだけではなく、垂直市場にも資金を投じました。というのは、カーネギーはただ鉄鋼を生産するための材料を買い集めるだけにとどまらず、工場での生産や流通まで一貫して手がけたということです。

その結果、鋼鉄炉を燃焼させるための炭鉱や、完成した製品を運ぶための鉄道や船舶、鉄鋼石の加工など、鉄鋼業界全般にわたる多数の企業を経営できたのです。

慈善家としての活動

アンドリュー・カーネギーは、「金持ちになることは、彼の人生の第一歩に過ぎない」と感じていました。それで富豪となったとき、彼は、人生の残りを、「貧しい人々のために自分の財産を提供する」と決めたのです。

そのなかでも特に熱心に行ったのは、図書館への寄付でした。彼の資金提供により、アメリカはもちろん、世界で1,600ヶ所もの図書館が開設されました。

カーネギーはまた、教育関連の支援にも協力を惜しみませんでした。ピッツバーグにあるカーネギー・メロン大学の設立に寄与したのです。

そのほかにも、数千台におよぶ教会のオルガンの購入、ニューヨーク市でのカーネギー・ホールの建設や、教育振興を目的としたカーネギー財団設立などのプロジェクトにも尽力しています。

遺産の寄付

カーネギーは、マサチューセッツ州レノックスで1919年8 月11日、肺炎により死去しました。遺産の大半は、彼の設立した基金や慈善団体などに寄付されました。

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この記事に対するコメント
  1. 日本の名無しさん より:

    おかげで遺族は葬式代に困ることになった。国葬にならなければ葬儀のために借金をするしかなかったはず。

  2. 日本の名無しさん より:

    人は人生の前半でお金を稼ぎ、後半にお金を社会に還元するべきだと生前、主張していました。私は今65歳ですが、カーネギを尊敬していました。でも、幸せ(喜び)は、お金では買えません。カーネギさんは貧富の格差を無くしたかった、それで、教育に寄付をしました。これは、彼が物やお金に拘らない性格だったからです。子供にすれば、お金持ちの家に生まれたのに、親が遺産を全て寄付するなんて、と、思ったかも知れませんネ(冗談です)

  3. 日本の名無しさん より:

    自己啓発本で大儲け。

  4. 日本の名無しさん より:

    人が富を得ると次に欲しくなるのは名声。

  5. 日本の名無しさん より:

    金のない奴ほど見栄を張る。
    貧乏の不良DQNが型落ち中古車買って、ださく改造して、それを高級車だと思い込んだJKを引っ掛ける。
    ああ、負の連鎖。
    カーネギーと比べたら、神様とウジ虫の差がある

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