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「するどい感受性で、メッセージを伝えた喜劇王、チャップリン」

2014/09/06
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はじめに

今の時代、映画は、私たちの生活になくてはならない娯楽の一つとなっています。

映画を、じっくり見る機会が少ない人でも、映画の予告をTVで見たり、映画のポスターを街中で目にしたりと、我々の日常生活の中に映画は、しっかりと浸透しています。

私達の心の中に、映画の居場所を与えてくれた歴史上の偉大なる映画スターについて、今回は語らせていただきます。その人物の名前は、チャールズ・チャップリン、世界の三大喜劇王の一人です。

生い立ち

チャールズ・スペンサー・チャップリンは、イギリスのロンドンの貧しい家庭に1889年4月16日に生まれます。

両親は、チャップリンが1歳の時に離婚します。

幼少期、彼は収入を得る手段のない母親と、異父兄シドニーと一緒に暮らしていました。父親が、子どもたちのための経済的サポートを全くしていませんでした。

暮らしぶりは貧しく、チャップリンは、7歳の時、救貧院へと送られます。

チャップリンは子供時代、救貧院を出たり入ったりすることを繰り返しています。地域の慈善団体が経営する学校で教育を受けました。

1898年の9月に、チャップリンが母親が、精神的な病気にかかり、精神病院に送られます。母親はずっと、精神を患い1928年に亡くなるまで医療のケアを受けていました。

彼の父親も、ひどいアルコール依存症でした。母の入院中に父も亡くなります。享年38歳でした。

こうした不幸が重なり、チャップリンと彼の兄シドニーは、自分たちで自立していくしかありませんでした。

1898年といえば、チャップリンはわずか9歳ですからね。兄のシドニーだってわずか13歳です。この歳の子どもがどうやって生きて行けっていうんですか?今の時代じゃ、考えられませんよね。

役者人生の始まり~渡米

10歳の時、チャップリンは、「エイト・ランカシア・ラッズ」という木靴ダンスの一座で、卓越したタップダンスを披露して人気者になりました。これが、彼のプロとしてのスタートです。

また、正当なステージショーでのスタートは、ウィリアム・ジレットのサポートにより、「シャーロック・ホームズ」のステージで、新聞配達少年、ビリーの役を演じたことが始まりです。1903年から、1906年まで、この舞台で活躍します。

*ウィリアム・ジレット・・・アメリカの舞台俳優、演出家、シャーロック・ホームズを演じたことで有名です。

その後、彼はパントマイムをステージで披露しながら生活していきます。生きていくために、死にもの狂いであったことは容易に想像できます。

チャップリンはアメリカに渡り、カーノー劇団に所属し、6年間カナダ、フランス、アメリカ等で興行して回ります。

1913年の終わりごろ、彼はキーストン・ピクチャーズと、契約を交わします。初めての映画会社との契約でした。当時の彼の報酬は週給、150ドルでした。彼の初の映画のタイトルは「成功争い」です。

1915年、「ヴェニスの子どもの自転車競走」で、あの有名なチャーリースタイルが登場します。山高帽に、ステッキを持ち、だぼだぼのズボンを身にまとったチャップリン、滑稽な彼のパフォーマンスに笑ってしまいます。

声を出さずに、見ている人を笑わせるって、すごいことだと思います。

世界的映画スターへ

その後、エッサネイ社や、ミューチュアル社などへ移動してさらに映画製作に励みます。

1919年、彼は、自分の思い通りの作品を作るために、ダグラス・フェアバンクや、メアリー・ピックフォード、監督のD・Wグリフィスらと共に配給会社ユナイティッド・アーティストを設立します。

その後、数々の名作がチャップリンと彼の仲間達によって製作されていきます。

街の灯

その中でも、「街の灯」(1931年)は、サイレント映画の偉大さを今の時代に伝える名作だと言えます。当時、トーキー映画は、しっかりと人々の中に定着していました。

もちろん、全世界の人々に、チャーリのパントマイムは定着してはいました。けれども、今チャーリが、英語で話を始めたら人々はびっくりして、後ずさりしてしまうだろうとチャップリンは判断しました。

サイレント映画を未来永劫、残すためにどうしたらいいか?チャップリンは対策を練りました。

その結果、彼は、「街の灯」で、一切会話を入れないという手法を採りました。彼の作品の中で最もハードで、最も長い月日をかけた作品です。なんと、製作に着手してから完成するまで、2年と8か月もかけています。

映画の初演は、かつて見られた映画の中で最も輝かしいものとなりました。ロサンゼルスでは、チャップリンのゲストにアイン・シュタインが招かれました。

また、ロンドンではバーナード・ショウがチャップリンの隣に座りました。「街の灯」は、決定的な勝利をおさめたのです。

私は、約40年近く前にこの映画を見ました。

最初は「この映画の人たち、なんで、しゃべらないんだろう?つまらない。」と思っていました。でも、次第に惹きこまれ、チャップリンと花屋の娘さんとの再会の場面では、本当に胸がジーンとなりました。

チャップリンの手を握り、私を助けてくださったのは「あなたでしたの?」というシーンは生まれて初めて、映画を見て感動の涙を流しました。しゃべらなくても、感動は伝わるものなんだなと思いました。

独裁者

さて、次に注目したいのが「独裁者」(1940年)です。

この映画、私、今まで第2次世界大戦後に作られたものとばかり思っていました。日本が真珠湾を攻撃したのが1941年の12月8日ですから、アメリカが参戦したのはその後です。なんと、アメリカが参戦する前に製作されていたんですね。

ドイツ・ナチスが勢いを増している真っ只中に、こうした映画を製作しようとするチャップリンの勇気に、「まいりました。」と言いたいです。彼のユーモアを通して、ナチスを批判する切り口は、本当にお見事としか言いようがありません。

核心をつく、ユーモアとはこういうものだと、我々に示してくれたと私は思います。しかし、この頃から、彼は共容(共産主義に対して寛容である。)だと、社会的に批判を受け始めます。

アメリカ~スイスへ

その後、1947年公開された「殺人狂時代」で、チャップリンに対するバッシングは決定的なものになります。

1952年「ライムライト」の初演のイベント出席のため、ヨーロッパに渡航中、船上で彼は国外退去命令を言い渡されます。

アメリカへ帰れなくなったチャップリンは、その後、永世中立国のスイスに移り住みます。

1957年「ニューヨークの王様」や、1974年「私の自叙伝」の映画を製作します。1972年にアカデミー賞授賞式に出席するために、チャップリンは、アメリカを再び訪れます。

1977年、スイスで彼は88歳で、静かに息を引き取ります。映画に打ち込み続け、天寿を全うしたというのにふさわしい彼の人生でした。

終わりに

彼は映画を通して、笑い、ユーモアの持つ様々な姿を、フル稼働で我々に伝えてくれました。

その中には、コメディあり、哀愁と同居した笑いあり、核心をついたブラックユーモア・・・等があります。彼のするどい感受性をもとに作られた映画は、今もなお、人々の心に感動を与えています。

チャップリンは、「自分の最高傑作は、次の作品だ(ネクスト・ワン)!」と生前、言っていました。現状に満足せず、また、チャレンジするという彼の気持ちを表現した言葉です。

周囲の批判に屈服することなく、自分の感受性を信じて最高傑作を作り続けた彼の信念こそが、チャップリンを成功へと導いてくれたのだと私は思います。今度、生まれ変わってきても彼は、きっと最高の”ネクスト・ワン”を作ることでしょう。

その時まで、どうか安らかに眠られてください。

【参考URL】http://www.charliechaplin.com/en/biography/articles/21-overview-of-his-life
http://www.history.co.uk/biographies/charlie-chaplin

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この記事に対するコメント
  1. 日本の名無しさん より:

    独裁者に関しては演説のシーンを純粋なナチ批判と見るかどうかで評価が分かれるよね
    内容に関係なく激賞する国民に唖然としてるようにも取れるし(演説後の表情から民衆が独裁者に解放されたことを喜んでるわけじゃないと取れる)
    愛と平等と人生を規範としようと扇動した結果、自らが民主主義を否定する独裁者になり得ることを暗に示唆してるようにも取れるし
    棚ぼたで共産賛美と取られたのはアレだけど

  2. 日本の名無しさん より:

    独裁者は最後のシーンで前後の流れを無視していきなり主人公の人格が変わる
    チャップリン自身最後をどうするか悩んでたみたいだし
    まあその歪さがあのシーンを唯一無二のものにしていると思うけど

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