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Coco Chanel / ココ・シャネル—『ココ・シャネル』、8つの伝説

2015/01/23
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今、あなたのクローゼットや部屋を覗いてみてください。おそらくそこには、『ココ・シャネル』の「流行りにとらわれない美学」に進貢し得るものが少なくとも1アイテムは、あるのではないでしょうか。

そうです。女性だけでなく、男性にもあてはまりますね。

パリジャンは幻想的に≪素朴こそ美学≫というモードを創りだし、その都会的洗練を真っ先に、ココ・シャネルの時代に取り入れました。

そんな彼女の独自のスタイルは彼女の死後も長い間称えられ、トムフォード、プラダ、ヘルムートラング、デレクラム、オスカーデラレンタ、ダナキャランのような錚々たるデザイナー達を鼓舞してきました。

今日シャネルは、「贅沢の典型」、「ハイクラス」、「究極の美」などと形容され、世界のトップブランドになっていますが、そこにたどり着くまでの道のりは果たしてどのようなものだったのでしょうか。

2013年8月19日、ココ・シャネルの生誕130周年を迎えました。聖像画的デザイナー、物議を醸すような過去、完璧なまでに時代を超越した精巧なファッションセンス・・・・一言では語りつくせないほどの伝説があります。心の準備はいいですか?

それでは早速、『ココ・シャネル:8つの伝説』の扉を開いてみましょう。

1.『ココ』の由来

ココ・シャネル(本名:ガブリエル・ボヌール・シャネル[Gabrielle Bonheur Chanel])の『ココ』ってどこから来たんだろう・・?と疑問に思う人が多いのではないかと思います。ここでは、その名の由来についてお話します。2つの説があるようです。

元々お針子の仕事をしていたシャネル。実は彼女には叶えたい夢がありました。それはファッションデザイナーからは想像しがたい「歌手」になることでした。お針子の仕事の傍ら、現在で言うキャバレーのようなカフェで歌いながら歌手を志していました。

そんな彼女の十八番が、『Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)』と『Qui qu’a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのはだれ)』の2曲でした。まずひとつの説としては、これらの歌の題名にちなんで付けられたということです。

もうひとつの説としては、フランス語の『cocotte(ココット ; 高級売春婦)』から付けられたというものです。

どちらが真実なのでしょうか・・・。どうやら、さっそくシャネルの伝説が始まったようですね。ちなみに、歌手になるという彼女の夢ですが、オーディションを受け続けるも落選ばかりだったようで、あきらめざるを得ませんでした・・・。

2.始まりは修道院から・・・

1883年、シャネルは、フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれました。大変貧しい家庭に生まれた女の子でしたが、悲劇はそこから始まりました。

12歳の誕生日を迎える前に母親のジャンヌが病死し、行商人だった父親アベニールも、子供たちを置き去りにし、家を出て行ってしまったのです。その後、シャネルと姉は修道院(孤児院)に、弟二人は父親の親戚の家に預けられました。

修道院でシスターに裁縫の仕方を教わり、6年後、18歳でそこを出る頃には、独自の技巧をマスターするほどの腕前になっていました。

3.恋多きファッションデザイナー

シャネルは、人生において一度も結婚することはありませんでしたが、彼女のキャリアに力強い影響を与えてくれた著名人である恋人や愛人が数多くいたと言います。(すべてが良い影響を受けたとは言い切れませんが・・。)

ざっと挙げてみると・・・。

1. エティンヌ・バルサン(フランス社交界の名士・ポロ[ホッケーに似た4人1組でプレイする馬上球技]選手])
2. アーサー・エドワード・“ボーイ”・カペル(イギリス人青年実業家・資本家・ポロ選手)
3. ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵(ドイツ占領軍の情報高級将校)
4. ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将(ドイツの国家保安部SD局長)
5. イーゴリ・ストラヴィンスキー(ロシア人作曲家)
6. ジャン・コクトー(フランス人芸術家[詩人・小説家・劇作家・評論家・画家・映画監督・素描家・彫刻家])
7. パブロ・ピカソ(スペイン人画家・素描家・彫刻家)
8. ドミトリー・パヴロヴィチ大公(ロシア大公・ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の長男)
9. ウェストミンスター公爵・ヒュー・グローヴナー(イギリスのヴィクトリア女王によって創設された公爵位)
10.ポール・イリブ(フランス人ファッションイラストレーター)

噂になっているだけで10人です!!!もしかすると、もっといたかもしれませんね・・・。

最初の恋人は、エティエンヌ・バルサンです。彼と共にパリ郊外へ移り、友人たちの社交場となった彼の牧場で過ごします。

退屈しのぎで作っていた帽子のデザインがそこで高い評価を受け、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、記念すべき初の帽子のアトリエを開業しました。開業にあたっては、バルサンの多大なる援助があったようです。

そんなバルサンを通して出会ったのが、一生涯愛する人物となる、アーサー・エドワード・“ボーイ”・カペルでした。

1910年には、パリのカンボン通り21番地に、「シャネル・モード」という帽子専門店を開業しました。その頃、既にバルサンとは別れており、アーサーとの交際が始まっていましたが、カンボン通りの店の開設資金は、カぺルの助力によるものでした。

彼もポロ選手でしたが、シャネルの人柄や、彼女の創るデザインに魅了され、教養を身に着けさせるために、お勧めの詩や哲学などを自ら書いたノートや彼女の好きな白い花をよく贈っていたと言います。

また、その後彼女は13歳年下のドイツ人のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵にも恋をしました。

その他、上記に挙げた男性と恋に落ちたり、愛人関係を持ったりと、キャリアだけでなくプレイベートでも大忙しのシャネルでした。きっと、「恋をすること」がなによりの『ココ・シャネル』であることへの原動力だったのかもしれませんね。

4.「ジャージー素材」で大躍進!!

一軒の素朴な帽子屋が、続々とシャネルブランド服を取りそろえる立派なブティックにまで繁栄しました。

1913年には、ドーヴィルに二号店を開店。翌年第一次世界大戦が開戦しましたが、1915年には、ビリアッツに『メゾン・ド・クチュール』を開店します。

翌年、コレクションを発表し、大成功を収めました。その大躍進を成し遂げるきっかけとなったのが「ジャージー素材」でした。その大躍進が一気にシャネルをファッションデザイナーの世界へと導きました。

その当時、裕福な女性たちは、外国産素材で作られた、いかにも高価で派手な装飾品を身に着けていました。それに対抗するかのように、彼女は画期的アイディアが閃き、それまで主には男性用下着に使われていたジャージー素材から、洋服を生み出したのです。

選んだ理由としては、低価格だったこと、女性の体にぴったりとフィットすることだったようです。

「私は、女性が生き生きとしていられて、気持ちよく息ができて、着心地が良くて、見た目よりも若く見せてくれるような女性ファッションを創るの。」

こう自分のデザイン観を語りました。

1918年に第一次世界大戦が終戦しましたが、その後も彼女の挑戦はとどまること知らずでした。

1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張し、そこで前年に出会った調香師エルネスト・ボーによって生み出されたシャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表します。

1924年には、その当時の恋人グローヴナーから多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型が作られました。

5.シャネルはナチスのスパイだった・・・?!

2011年8月、アメリカ人作家ハル・ヴォーガン氏が『スリーピング ウィズ エナミー』というシャネルの暴露本を出版しましたが、その中でヴォーガン氏は、彼女がナチス軍と関わっていたとし、挑発しています。

具体的には、フランスがドイツから占領されていた時代にシャネルの愛人だったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵が、ドイツ諜報機関(おそらくゲジュタポ)のエージェントだった、というのです。

この本が出版されてからまもなく、シャネル側は、「シャネルが戦争中にドイツの貴族と関係があったという確証はない。そんな時期にドイツ人と恋愛関係を持つことがご法度だということはわかりきっていることだ!」として、その論争を引き下げるよう告発しました。

また、「シャネルが、ユダヤの友達を持つことや財政家のロスチャイルド家と関わることなんてありえない。」と付け加えながら、「ファッション界では、シャネルが反ユダヤ派であると論争した。」とも陳述されています。

実際のところはどうだったのでしょうか・・・。歴史的背景と共にシャネルの動向を調べてみました。

第二次世界大戦中の1940年、シャネルの祖国フランスは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに占領され、親独のヴィシー政権下となった。

その際、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問され処刑された人々がいました。

その一方で、シャネルはドイツの国家保安部SD局長でヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将にすり寄り、愛人関係を持ったそうです。

このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に逮捕され、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びました。

しかし、イギリス首相であるウィンストン・チャーチルの計らいにより解釈され、その後、シェレンベルクと共に戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し、亡命生活を送ったとされます。

6.繁栄、孤立、亡命、バッシング、カムバック・・・そして絶大なる支持

~波乱万丈の末の「モード・オスカー賞」受賞に至るまで~

1939年、56歳を迎える頃、シャネルは4000人を抱える大企業として成長していました。しかし、特にコレクション前の繁忙期などの過酷な労働条件に、労働者がストライキを起こしました。

それでも、自らが築いてきた地位を優先したシャネルは、労働者に対立し、全ての事業を閉鎖し、(一部店舗を残す)一時引退することを決めました。

同年9月に勃発し、1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守りました。

1954年、ついにパリに戻り、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界への復帰を果たしました。71歳でした。

一度は「売国奴」としてバッシングを受けたりなどして蔑まれたシャネルでしたが、亡命から10年以上経っていたということもあり、そんな彼女に対する嫌悪感は大分薄まっていたようです。

また、「ウーマンリブ運動」によって女性の社会進出がめざましかったアメリカ合衆国では、熱狂的に受け入れられました。

その当時の女性のファッショントレンドは、特に『クリスチャン・ディオール』や『クリストバル・バレンシアガ』など、男性デザイナーによって創られていた「ウエスト用コルセット、厚手のスカートや堅いジャケット」のようなアイテムが主流でした。

「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか・・・」シャネルは積年の疑問を抱いていました。

そこで、その当時の愛人であったウェストミンスター公爵の故郷であるイギリス紳士服の仕立てや素材を女性用に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがあるウールのスーツ)」を翌年発表することになります。

窮屈で重たいドレスから女性たちを解放し、活動的なスタイルを生み出したのです。また、女性の自立を目指し、モデルに、当時の女性としては斬新だった、ポケットに手を入れる仕草をして歩かせていました。それにより、女性服にポケットを作ったのです。

そんな彼女のファッション観を批判する評論家もいましたが、イギリス人やアメリカ人からは好まれていました。

その中でも、女優のエリザベス・テイラー(英)やジェーン・フォンダ(米)、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの夫人ジャクリーン・ケネディ・オナシス(米)やモナコ公国レーニエ世公妃・元女優グレース・ケリー(米)などは最も代表的な支持者でした。

また、そんなユニークなファッションが高く評価され、ハリウッドの映画制作会社からも注目を浴びるようになります。特にサミュエル・ゴールドウィンをはじめとする有名な映画プロデューサー達が、彼女にとって有益な契約をオファーしてきたのです。

契約内容は、年に2度ほどハリウッドへ行き、映画俳優の衣装をデザインする、というものでした。

デザイナーとしてハリウッドで働くようになってから、ハリウッド女優のグレタ・ガルボや、マレーネ・ディートリッヒが専属のクライアントとなったり、映画『今宵ひととき』、主演女優グロリア・スワンソンの全衣装を手がけたりと、大活躍のデザイナーとなったのです。

カムバックからわずか1年後の1995年、数々の偉業を称えられ、アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞しました。

7.白い花に囲まれて・・・。

シャネルは、かなり痩せた体型だったために、モデルとして自身ブランドの服を着たシャネルがきっかけで、現在にいたるまで、「ファッションモデルは痩せている方が美しい、という固定観念が生まれた」と言われています。

数々の斬新なアイディアを生み出し、かつ、自分の信念を持って生きる姿は、特に数多くの女性に支持を得ました。

ファッション界に革命を起こした女性、ココ・シャネル。1971年、87歳。住居としていたホテル・リッツにて、コレクションの準備中に死去しました。

亡骸は、第二次世界大戦中のドイツへの協力およびフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたローザンヌの墓地『ボア・デュ・ヴォー』に埋葬されました。

シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れています。

8.世界の『シャネラー』もご用達!人気のマスト・アイテム!!

ジャケット

男性のフォーマルジャケットをレプリカしつつ、エレガントで女性らしさを取り入れたツイードのジャケットです。

現在ではドイツ人ファッションデザイナー、カール・ラガーフェルドが、オリジナルデザインを残しながらも、彼独自の要素を加えて「シャネル・ジャケット」をリメイクしています。

香水

「あなたは夜、何を着て寝ますか?」
「シャネルNo.5を数滴つけるだけよ・・。」

これは、マリリン・モンローが雑誌『ライフ』の表紙用インタビューで答えた彼女らしい魅惑のコメントです。今となっては、大人気の「シャネルNo.5」ですが、爆発的に人気を得たのは、実はこの雑誌の掲載だったようです。

現在でもアメリカでは、そのセクシーなインタビューを再現し、CMで流れています。

黒いミニワンピース

伝記映画『ココ・シャネル』の中で、シャネル役を演じたアメリカの俳優シャーリー・マクレーンは、シャネルのことを、「1950年代、70代にしてファッション界復帰を果たした人物」として描写しています。

映画の中で、マクレーンが、ある女性の黒いドレスを調整しているシーンがあります。彼女は突然、そのドレスの袖の部分を引き裂き、裾からは、ふわふわとした生地を取り除き、丈をうんと短くします。

そうです。ここで「シャネルの黒ミニワンピース」が生まれました。「常に引き算を。余計なものはつけ足さない」これがマドモワゼル・シャネルの名言です。

ハンドバッグ

ハンドバッグの歴史は、1929年初期にまでさかのぼります。

その当時、シャネルは軍隊のバッグにヒントを得て、自らがハンドバッグを持つ時の不便さを感じていたのもあり、長いストラップをつけることを生み出したのです。

1980年代にドイツ人ファッションデザイナー、カール・ラガーフェルドが、シャネルハンドバッグをリメイクし、バッグがより市場に出まわるようになったことで、爆発的人気を得ることになりました。

【参考URL】http://www.biography.com/news/coco-chanel-8-fashionable-facts-on-her-130th-birthday#awesm=~oEtusQ4wEkZVFw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB
http://hiroomikes20120501.blogspot.com/2012/12/hal-vaughan2012125.html

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