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「世界的なブランドを作った熱血未亡人」

2014/06/26
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グラスの中できらめく黄金色の泡。シャンパンほど華やかで祝いの場にふさわしい飲み物はないですよね。

そのシャンパンの中でも最高級品の一つとして愛されているヴーヴ・クリコ。けれど、その名前はちょっとお祝いの場にはふさわしくないかもしれません。ヴーヴ・クリコは未亡人クリコという意味なのです。

この名前には、世界に名だたるシャンパンのブランドを作り上げた熱血未亡人、バルブ・ニコル・ポンサルダン・クリコの物語が秘められています。

バルブ・ニコル・ポンサルダンの転機

バルブ・ニコル・ポンサルダンはシャンパーニュ地方ランスの裕福な織物業者の娘として生まれました。彼女の人生は、2つの出来事がなかったら、全く違ったものになっていたでしょう。

フランス革命

その1つは、1789年に起こったフランス革命です。そのとき、バルブ・ニコルは12歳でした。彼女の父、ニコラスは自分の娘を貴族に嫁がせて家族を中産階級から貴族階級にしたいという野望を持っていました。

しかし、その野望は革命と共についえます。そして、機を見るに敏なニコラスは、さっさと君主制主義者からジャコバン派へ鞍替えしました。

この父の抜け目のない政治信条のおかげで、バルブ・ニコルの家族は、比較的傷を負うことなく、革命から逃れることができました。それは、当時の裕福なブルジョア家族にしては稀なことだったのです。

フランソワ・クリコとの結婚

彼女の2番目の人生の転機は、1798年、20歳でフランソワ・クリコと結婚したことでした。

フランソワの父、フィリップ・クリコは彼女の父親の同業者で、二人の結婚は、いわば事業のための政略結婚でした。たとえそうであれ、二人の間には徐々に本当のパートナーシップが生まれていきます。

フランソワには織物業を継ぐ代わりに、稼業の傍ら営む小さなワイン業を大きくしたいという野心がありました。

当時、父フィリップは、必要に応じて生産者からワインを買い、それを販売していましたが、フランソワは、単に売るだけでなく自分たちでワインを作りたいと考えました。彼は、ワイン特にシャンパンに特化することを考えます。

当時、その地方の名産だったからです。バルブ・ニコルは夫の傍らで事業についてあらゆる事を学びました。事業は、最初は上手くいきましたが、ナポレオン戦争によりワインの輸出が困難になり、打撃を受けます。

1805年、フランソワは、失望し、落胆したまま亡くなりました。バルブ・ニコルは、幼い娘を抱えて、わずか27歳で未亡人クリコ、ヴーヴ・クリコとなったのです。

バルブ・ニコルは未亡人暮らしに引きこもる代わりに夫の事業を自分の事業として続けることを決意します。幸運なことに、義理の父親が進んでこの冒険に投資してくれました。

彼女はシャンパンのみに集中することを決意し、1810年、「ヴーヴ・クリコ・ポンサルタン」を設立します。しかし、事業は相変わらず上手くいかず、崩壊寸前のままでした。

バルブ・ニコルの大きな賭け

彼女は再び義理の父に出資を頼みます。彼女の商才を信じていたフィリップ・クリコは、再び彼女に投資しました。

破産に直面して、バルブ・ニコルは大きな賭けにでます。

当時、最大のマーケットはロシアでした。ロシア人は早くから熱心なシャンパン好きで、ナポレオン戦争が終われば、ロシアで彼女のシャンパンはたちまち売れるだろう、販売を独占すれば成功は間違いないと彼女は考えたのです。

戦争中は海上が封鎖されていたため、ロシアに出荷することができませんでした。戦争がまもなく終わるだろうと考えたバルブ・ニコルは、こっそりとシャンパンを大量にフランスからアムステルダムに持ち込み、そこで戦争が終結するのを待ちます。

それは、1811年物の最上のシャンパンでした。

1811年、彗星が通過したその年は葡萄が大豊作で、シャンパンも異例の当たり年となり、「彗星ビンテージ」と呼ばれる素晴らしいシャンパンが作られました。その極上品、10500本を、戦争が終結するやいなや、ライバル業者を出し抜いてロシアに輸出したのです。

すぐに彼女のシャンパンはロシアの人々を魅了し、皇帝アレキサンダー1世は、自分が飲むのは彼女のシャンパンだけだと公言しました。

これによりヴーヴ・クリコの名声が世界中に広まっていきます。この彼女の名声を創った「彗星」はヴーヴ・クリコのマークとして今でも使われています。

バルブ・ニコルは、無名の存在から誰もが知る存在になりました。すべての人々が彼女のシャンパンを欲しがったのです。

シャンパンの製造の改良

突然、シャンパンの需要が増えたため、彼女は注文に応じきれなくなります。当時、シャンパンの製造はとても手間がかかるものだったからです。

バルブ・ニコルはこの製造過程を改良することを思い立ちます。シャンパンは糖分と酵母を白ワインに加え、ボトルの中で二次発酵させて作られますが、この過程で澱が生まれます。この澱のため、当時のシャンパンは濁っていて、味もあまり良くありませんでした。

この澱を当時の業者はボトルを移し替えることで取り除きましたが、この工程は時間がかかり、なにより味を損ねました。バルブ・ニコルは自分のセラーの職人と共にこの澱を取り除く新しい方法を開発します。

それは、ルミュアージュと呼ばれる方法で、ワインのボトルを上下逆さまに台にセットし、ゆっくりと回転させることで澱を瓶口に集めていく方法です。この方法は現在もシャンパン醸造業者の間で使われています。

バルブ・ニコルの発明はまさに革命でした。この発明により、シャンパンは、今のような透明な黄金色に輝き、繊細な泡をたてる飲み物となりました。

それだけでなく、職人芸から生まれる贅沢な商品の大量生産を可能にし、彼女はシャンパンのマーケットで優位に立つことができるようになりました。

1820年代には、“未亡人クリコ”は年間175000本のシャンパンを世界中に輸出するようになり、世界的に有名なシャンパン王国を築き上げました。

その勇気と知恵と熱意で“未亡人クリコ”ことバルブ・ニコルは、シャンパン市場を国際的な市場へと発展させ、ヴーヴ・クリコを世界的に有名なブランドとし、シャンパンを上流階級のみが楽しむ飲み物から中流階級の誰もが飲むことができる飲み物へと変えました。

シャンパーニュ地方の「グランダム(偉大な女性)」

彼女は再婚することなく、終生を仕事に捧げます。64歳のときに事業からリタイアしますが、1866年、89歳で亡くなるまで、バルブ・ニコルは彼女の名前を冠した企業にかかわり続けました。

そんな彼女を人々はシャンパーニュ地方の「グランダム(偉大な女性)」と呼びました。グランダムの作り上げたヴーヴ・クリコは今でも世界中で愛され、高い名声と地位を維持し続けているのです。

【参考URL】http://scandalouswoman.blogspot.jp/2010/12/story-of-widow-clicquot.html
http://www.nytimes.com/2008/12/28/books/review/Stern-t.html?_r=0
http://www.veuve-clicquot.com/
http://flaglerlive.com/16097/veuve-clicquot-champagne/
http://voices.yahoo.com/madame-clicquot-ponsardin-grand-dame-champagne-7590164.html?cat=37
http://www.ladieswholaunch.com/magazine/barbe-nicole-clicquot-ponsardin/2642
http://www.smithsonianmag.com/arts-culture/the-widow-who-created-the-champagne-industry-180947570/?no-ist

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