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知的で、慈愛に満ち、恵まれない子供たちを救っていくオプラ

2014/06/21
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さて、今回はアメリカの有名なニュースキャスターで女優でもある、オプラ・ウィンフリーについて書かせていただきます。

彼女は、慈善家として活動していることでも有名です。2007年には、南アフリカに、恵まれない境遇にある女の子たちのための学校を創設しています。

こうした、オプラ・ウィンフリーの、博愛主義の精神は、彼女自身のつらい生い立ちが、原因で生まれたとも言えます。

彼女の、波瀾万丈の人生を、これから、見つめていきたいと思います。

実の親に可愛がられなかった幼少期

オプラは生まれた時から辛い境遇

オプラ・ウィンフリーは、1954年、1月29日にミシシッピー州で生まれます。両親は、二人とも、入籍をしていない十代の若者でした。

彼女の母親は、オプラの名前を聖書からとって、Orpha(オーファ)と名付けたかったのですが、綴りを間違えOprha(オプラ)としてしまいました。

彼女の父親が、こっちの間違った方の名前を気に入ったので、そのまま、Oprha(オプラ)になりました。

オプラの両親は、当時、苦しい状況の中生活していましたので、自分たちの赤ちゃんが大変な目にあうことを怖れて、オプラを祖母のもとに預けました。

オプラは、祖母が亡くなる9歳まで、祖母のもとで暮らします。

スラム街で生活することに

おばあちゃんが亡くなるという悲しい出来事の後、彼女は、母親のもとへ引っ越します。そして母親と父親が違う3人の弟たちと、一緒に生活を始めます。

オプラの家族は、ウィスコンシン州、ミルウォーキーのスラム街で暮らしていました。

長期に渡る性的虐待とそれによる妊娠

母親と暮らし始めて2,3年が過ぎたころ彼女は、彼女の家族が信頼を寄せていた親戚にあたる人物から、性的虐待を受けます。

この性的虐待は彼女が、9歳の時からずっと続きました。彼女は、それこそ、何回も家出を繰り返しています。

とうとう、14歳の時に彼女は妊娠します。親戚からの性的虐待が原因です。

なんて、目を覆いたくなるようなひどい事件なんでしょう。「神様!」と、叫びたくなります。

赤ちゃんは、生後間もなく亡くなってしまいます。

たかだか、14歳の女の子が味わうにはあまりにも凄惨な出来事だと思います。

こうした、不幸でむごたらしい子供時代を経験しているためオプラは、ティーンエイジャーとものすごく忍耐強く愛情を持って、接することができます。

教育熱心な父との生活が人生の転換期

オプラの母親は、彼女とこのまま一緒に暮らすことができなかったので、テネシー州、ナッシュヴィルに住む実の父のもとへ預けます。

彼女の父は、オプラを母よりもさらに厳格に育てます。実際、彼は、毎日オプラに5つの単語を覚えさせます。

もし、それをしなければ、オプラは夕食にありつけませんでした。

この時期が、若きオプラにとって最も重要な時期になります。なぜなら、この頃から彼女は、まさに成功への道のりを歩き始めることになるからです。

優秀な成績を残していく

ナッシュヴィルの高校へ通っている時、彼女は、優秀な生徒でした。特待生でもありました。人気投票でトップに選ばれたこともあります。

学校のスピーチチームに加わり、全米のスピーチコンテストで第2位を獲得しました。また、驚異的に卓越した話者の技術を持って、弁論大会で優勝し、しかもテネシー州立大学の奨学金も授与されることになりました。

この頃から彼女は、我々が知っている、今の有名人オプラへと見事に変身を始めます。

テネシー州立大学に入学した年に、ミス・ブラック・ナッシュヴィルや、ミス・ブラック・テネシーのタイトルを獲得します。

成功者としての第一歩

これまでの、彼女に対する好印象と、優れた話者であるというバッググラウンドが功を奏し
オプラは、19歳で初のアフリカ系アメリカ人女性の共同司会者としての仕事を得ます。

ナッシュビル(テネシー州)のTV局で、学生時代に勤めることになります。成績優秀で、お金も稼いで、すごいですね。

テネシー州立大学を卒業した後、ナッシュビル(テネシー州)のTV局から、ボルチモア(メリーランド州)のTV局へ、転職します。

22歳の時、彼女は赤いカトラス(車)に乗って、テネシー州、ナッシュヴィルから、メリーランド州、ボルチモアへと到着します。

ここから、7年半、彼女は若きニュースキャスターとしての土台を根底から築くだけでなく、メディアで脚光をあびることとなります。

今は、誰でも、オプラの名前は、知っています。しかし、彼女が22歳でボルチモアに来たときには、彼女の番組の視聴者は、「オプラって何?」と聞かれると返答できずに、困っていました。

オプラは、その頃の思い出を、次のように語っています・・

ボルチモアでの経験の全てが、自分にとって、困難だったわけではないけれど、そのほとんどが、一筋縄ではいきませんでした。でも、私は、その経験に対してあえて感謝したいと思います。

なぜなら、その時の経験が私を真の女性へと成長させてくれたからです。

その頃、私は無垢で、何のスキルも持たず、ビジネスや、人生についての、“いろは”さえ知らず、ボルチモアへやってきました。この当時の経験が、今の自分を育ててくれたのです。

ボルチモアでの7年半が彼女の、TV出演の歴史の中で最初の、そして、最も多く失敗した時期です。

でも彼女は、くよくよしたりしませでした。様々な障害や傷つくような出来事に、出くわしますが、傷ついてももちこたえ、傷害は克服し・・とやっているうちに気が付いたらビッグな舞台にふさわしい実力を身に着けていきます。

オプラは、ボルチモアで、一部始終、耐えているばかりではありませんでした。彼女は性的差別、非人道的な行為に対しては一歩も引きません。その点に関しては、真っ向から反論をします。

彼女のボルチモアでの格闘を追っていくと、ほんと、もまれながらもたくましく成長していった様子がうかがえます。

肝っ玉のすわった若いニュースキャスターがあらゆる困難を乗り越え、それをプラスに変え
貪欲に成長していく様子です。

つらい子供時代を思えば、「何の、これしき」と思っていたのかもしれませんね。

そうした経歴を経て、彼女は「AMシカゴ」(「オプラ・ウィンフリー・ショー」の前身となる番組)の看板ニュースキャスタとなります。

シカゴで最も高い評価を得ているトークショーに出演するところまで、のし上がってきました。

その後、ブレイクし、ついには、1985年、トークショーの名前が、「オプラ・ウィンフリー・ショー」と変わります。翌年には、全米で「オプラ・ウィンフリー・ショー」が放送されることになりました。

「オプラ・ウィンフリー・ショー」は、全米で放送されたしトークショーの中でも史上最高の番組であると評価されています。

見事に成功し、地位も富を得たわけですが、オプラは、ずっと、何かが、足りないと感じていました。

神様、どうかわたしを使ってください。
私は、どうあるべきなのか
私には何ができるか教えてくださいと・・

オプラは、祈りと模索を続けます。

そして、目覚めました。9歳のころの自分と同じような目に遭っている子供達を救おうと
決意したのです。

幼く、無力でどこにも行くところがないそうした子供たちを救おうとネルソン・マンデラ財団、テネシー州立大学基金・・等の団体と力を合わせて活動します。

これが、オプラの博愛主義の始まりです。オプラは、南アフリカに、学校を建てます。その学校は、『Opra’s Leadership academy』(オプラのリーダーシップアカデミー)と名付けられました。

オプラは、この学校で女の子達が学び、成長し将来、アフリカのリーダになってくれること期待しています。

オプラは、成功を手に入れた人物であると同時に、その成功で得た物を分け与えて
拡げていく人です。

何より、オプラの援助とチャンスを最も必要としている人達にそれを与えているところがすごいですね。

成功した人って、自分の名誉や富の上にあぐらをかかず、それを分け与えようとするからさらに豊かな人生になるのでしょうね。

オプラの献身的な愛に、ジーンときました。少しばっかり、目が潤んでもいます。素晴らしい、生き様に感動しました。

ここまで、逆境をプラスに変えて他人のために貢献する人ってなかなかいないでしょう。最後に、オプラの知性と、慈愛に満ちた活動に賛辞を送り、ペンを置かせていただきます。

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