2014年度、アメリカの経済誌『フォーブズ』が発表する世界長者番付でマイクロソフト創業者のビル・ゲイツは前年度の2位から返り咲き、1位となりました。
ゲイツが長者番付で首位になったのは、1995年から2007年までの13年間と、2009年に次ぐ15回目となります。
この世界1の金持ちゲイツは、アメリカン・ドリームの体現者、ウィンドウズ革命を引き起こして世界を一変させた人物として賞賛を浴びる一方、「悪の帝国」を築き上げた悪の帝王と呼ばれて非難の的にもなっています。
生い立ち
中学で出会ったコンピューター
1955年、ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世として、弁護士の父、教員の母のいるシアトルの裕福な家庭で生まれています。両親は競争に勝ち抜き、卓越した存在になるように勧めたといいます。
ボードゲームが好きだったというのは、リスクをとることが好きな性格がはやくも現れたといえるかもしれません。
コンピューターに興味を持ちだしたのは、中学高校一貫教育の名門私立学校レイクサイドスクールでのことでした。
この当時、コンピューターは大型のメインフレームしか存在せず、大学や研究所くらいしか設置されていませんでした。
ところが、レイクサイドスクールでは、DEC社のPDP-10を生徒は使うことができました。1970年代のハッカー文化を築き上げたといわれるマシンです。
後にマイクロソフトの共同創業者となるポール・アレンと切磋琢磨しながら、ゲイツはプログラミングの腕を磨いていきました。
高校で早くもビジネスに参入
1970年、ゲイツとアレンは早くもソフトウェア開発会社を立ち上げます。トラフォデータ社と名付けられた会社では、道路の交通量計測装置の生データを読み込み、交通専門技術者にレポートを作成していました。
大きな成功をおさめることはできませんでしたが、この時の経験がビジネス感覚をゲイツにあたえてくれることになります。
マイクロソフト創業
嘘で受注に成功
1973年、ハーバート大学に進学して法律の勉強を始めたゲイツですが、学業に専念することはできなかったようです。
授業にでるよりもコンピューター・ラボにいることを好み、テストの時は詰め込み勉強をしてほどほどの成績をとるうちに2年生となりました。
ワシントン州立大学に2年間通い、退学してボストンでプログラマーとして働いていたアレンから、ポピュラー・エレクトロニクス誌を見せられたのは1974年のことです。
この雑誌にはAltair 8800が特集されていました。アメリカ初の個人向けコンピューターです。二人はこのコンピューターの可能性に魅了されます。開発したのはMITSというニューメキシコ州の小さな会社でした。
ゲイツとアレンは「Altairで動くBASICソフトウェア・プログラムの開発に成功した」と嘘をついてMITSに連絡をします。MITSは購入に関心を示し、デモンストレーションを依頼してきました。
ところが実物はありません。二人ともAltairをさわったことすらありませんでした。8週間、寝る間も惜しんでハーバードのコンピューター・ロボで開発にとりかかります。見事、デモンストレーションは成功し、プログラムの購入がきまりました。
マイクロソフトの名前のゆえん
受注に成功したゲイツはハーバードを去り、アレンと起業しすることにしました。マイクロコンピューター」と「ソフトウェア」を組み合わせた「マイクロソフト」の名前を会社につけました。
マイクロソフトの快進撃
ビジネスセンスが成功の鍵
ソフトウェア開発力だけでなく、鋭いビジネスセンスがあったことが、ゲイツが成功を収めた理由でしょう。
おりしもコンピューター業界が賑わいを見せ始めた時代でした。ゲイツはマイクロソフトのソフトのメリットを売り込んで、うまく会社を上昇気流にのせることに成功します。
飛躍のきっかけMS-DOSはもともと他社開発
マイクロソフトが飛躍するきっかけとなったのはMS-DOSでした。アップルが1977年にApple iIで成功を収めたのを目にしたIBMはパソコン市場への参入をはかることを決定します。ゲイツはIBMを説得して、OS開発の受注に成功しました。
ところが大きな問題がありました。マイクロソフトはIBMの新しいコンピューターで動く基本OSを開発したことがなかったのです。
ここでゲイツは大胆な戦略をとります。自社でOSを開発せず、シアトル・コンピューター・プロダクツ社から50,000ドルでIBMと同類のPCで動作するOSを買い取り、IBM PC用に改良することにしたのです。
MS-DOSと名付けたOSをIBMに販売した価格も50,000ドルでした。
ライセンス料金をとる戦略
しかし、収益を得る見通しはちゃんとつけてありました。
ソースコードを売るのではなく、ソフトを搭載して売られたコンピューターの台数分のライセンス料金を後から得るようにしたのです。
この方法であれば、IBMだけではなく、IBM互換機を製造する他のメーカーにも、MS-DOSを販売し、ライセンス料金をとることができました。
このMS-DOSがきっかけとなり、マイクロソフトは飛躍を遂げます。2人ではじめた会社は1981年には従業員128人、1,600万ドルの売り上げを上げる会社になりました。
悪の帝国?
賞賛も非難も浴びるマイクロソフト
その後、Windows、Office製品などの発売により、マイクロソフトは時代の寵児となっていきます。Windows 1.0発売をネットワーク時代の夜明けであり、発売年にあたる1985年以降をアフター・ゲイツと呼ぶ見解もあります。
Windows 95が発売された1995年はWindows 95革命の年と呼ばれています。新しい時代を切り開いてきたという賞賛が浴びせられました。
その一方で、できの悪いシステムを人に押しつける悪の帝国、独裁者が支配する画一的で自由のない起業としての非難もよせられていきました。
Mac OSとの争い
Windowsが全OSで占める割合は2013年度で9割と、圧倒的なシェアを誇っています。
しかし、もともとWindowsは、マイクロソフトがアップルのMacintosh開発に参加したときに得た知識を生かして開発されたといわれています。実際、見た目もコンセプトもそっくりでした。
Macintoshの発表前にアジア圏などでWindowsを発表してアップルを出し抜いた形となっています。
Windows 1.0は初期のMacと比べてもできが悪く、Windows 3.1あるいはWindows 95がでるまでMac OSとWindowsはライバルになりえなかったといわれていますが、アップルとマイクロソフトは訴訟合戦い突入しました。
アップルとマイクロソフトの確執、MacユーザーとWindowsユーザーの確執は語り草になっています。
ブラウザ戦争
OSの圧倒的なシェアを生かしてライバルをたたきつぶしたこともあります。
1990年代前半、ネットスケープコミュニケーションズのNetscapeが最も人気のあるブラウザでした。マイクロソフトのInternet Explorer(IE)は1994年に開発されたものですが、機能が低く、ユーザーはほとんどいませんでした。
有料であったNetscape Navigatorに対して、IEをWindows95に組み込み、無償で提供するという戦略でシェアを拡大していきます。IEが無料戦略をとったことでNetscapeの収益モデルはくずれていきました。
Netscapeは独自機能を追加して差別化を図り、IEを引き離そうとしますが、独自機能はIEでは再現できないという問題点が発生します。結局、第一次ブラウザ戦争ではIEが勝利を収め、ネットスケープコミュニケーションズはAOLに買収されることになりました。
ゲイツのエネルギー源
時に強引、ともいえる方法でライバルを蹴散らし事業の拡大を続けたゲイツですが、そのエネルギーとなったのは何なのでしょうか。
お金のためではないのでしょう。財産を所有し子供に残すことに興味はないと発言しています。一方、ゲイツは次のような発言をしているのです。
「ビジネスは病みつきになるゲームだ。最大の興奮が最小のルールと組み合わさっている」
ゲームに勝って得るスリルと興奮、それがゲイツの原動力だったのかもしれません。
ゲイツは2008年に会長職にはとどまるもののフルタイムからは引退し、2014年2月に会長職から退き、技術担当アドバイザーになりました。現在はビル&メリンダ・ゲイツ財団を設立し、慈善活動に携わっています。
【参考URL】http://archive.wired.com/gadgets/mac/news/2002/12/56575?currentPage=all
http://homepage.univie.ac.at/horst.prillinger/evil-empire/
http://www.biography.com/people/bill-gates-9307520#video-gallery&awesm=~oHxhtnWyXwl79K
http://www.businessinsider.com/tycoons-not-leaving-money-to-their-kids-2013-8?op=1
http://www.cc.aoyama.ac.jp/~t11938/reports/microsoft.html
http://inventors.about.com/od/gstartinventors/a/Bill_Gates.htm