さまざまな作品でおなじみのジム・キャリー。今や、彼の名を知らない人はなかなかいないでしょう。
あるいは名前を知らなくても、あのクルクル変わる表情を見れば、「あ、この人か!」とピンとくるはずです。
今や大スターであり、一流のコメディアンとなったジム・キャリー。人を笑わせるのが大好きな彼の生い立ちは、実は苦労も多かったのです。
裕福な家庭で気楽に育ったわけではないジム。少し人と違う生活をしてきたからこそ、キャリアが花開いたのではないかと思います。
今日はジムの人生を簡単に振り返り、どのようなサクセス・ストーリーを紡いできたのかを見ていきましょう。
子どもの頃から明るい性格のジム
ジム・キャリーは1962年1月17日、4人きょうだいの末っ子としてカナダのオンタリオに生まれました。父親は会計士でありながら、ジャズサックス奏者でもありました。
子ども時代のジムは、明るい性格で、周りを楽しませたいと思うような子どもでした。今の役柄のキャラクターそのものというわけですね。
なんとアメリカで人気の番組だった『The Carol Burnett Show(キャロル・バーネット・ショー)』(1967年)に、10歳で履歴書を送ったほどなのです。
彼の明るい性格は、こんなエピソードからもうかがえます。
中学生のころのジムは、1日おりこうさんにしていた場合には、先生から学校の最後の授業の終わりに数分与えられ、漫才をする機会を設けられていたのです。
よほどみんなの注目を集めて、笑いを取りたかったのですね。彼は根っからのコメディアンなのです。
キャンピングカーで貧乏暮らし
ジムが子どものころ、父親が職を失いました。結局家族みんながキャンピングカーで寝泊まりすることになったのです。
それも、親戚の庭にキャンピングカーを置かせてもらうという、なんとも悲しい事態…。
家族は皆、生活のために働いていました。ジム自身も、学校が終わると8時間シフトで働きに出ていました。
学校でくたくたになった後の8時間。若いとはいえ、かなりつらかったに違いありません。
今のコメディー俳優としてみんなを笑顔にさせるジムが、子どもの頃から苦労をしていたのはとても意外なことです。
15歳でコメディアンに
ジム・キャリーは15歳でコメディアンの仕事をスタートしました。父親に、トロントのYuk Yuk’s clubにつれていってもらい、そこでショーを行ったのです。
母親が縫った黄色のスーツを着て、彼は舞台に立ちました。結果は最悪。ここで彼はエンターテイナーとして自分は生計を立てられるだろうかと疑問を持ち始めます。
ですが、その心配も長くは続いませんでした。エンターテイナーとして、彼は徐々に人気を集め、翌年には彼は高校を中退し、コメディアンとしてのキャリアに専念することにしたのです。
1979年、彼が17歳の年に、ジム・キャリーはロサンゼルスに引っ越します。そこでコメディアンのロドニー・デンジャーフィールドの目にとまります。
また、ジムはこの頃さまざまな映画に出演し始めます。小さな役でしたが、積極的にチャレンジしてきました。
19歳でハリウッドに挑戦するも挫折
19歳で、ジムはハリウッドに向かいます。ですが、多くの夢を持った若者と同様、ハリウッドで成功することは難しいと感じ始めます。
1985年、彼が23歳のときに、ジムは心が折れ、落ち込んでしまい、車を走らせハリウッドの丘に向かいます。そこでロサンゼルスを見下ろし、一人眺めながらいつか成功することを夢見ていました。
ここで彼が思いついたのは、なんともユニークな慰めでした。自分自身に1000万ドルの小切手を書いたのです。10年間有効の小切手。そしてその小切手を財布の中に入れておきました。
その小切手は薄汚れてしまっているものの、財布には残り続けました。ですが、夢だと思っていたことが実際に起きたのです。
彼は、『エース・ベンチュラ』など、1本の映画で何百万ドルも稼ぐエンターテイナーとなったのです。
彼が自身のために書いた小切手は、1994年に父親が亡くなった際に、一緒に埋めてもらったそうです。
ようやくブレイクの時が
地道に映画に出演し続けたジム・キャリーは、ようやく小さな役から脱します。1988年の『Earth Girls Are Easy』という映画(宇宙人が主役の映画)の撮影で、ジムは、デイモン・ウェイアンズに出会います。
デイモン・ウェイアンズと、兄のキーネン・アイヴォリー・ウェイアンズが、なんとジムをスカウトしたのです。
彼らのサポートがあり、ジムは1990年の『In Living Color』の出演に成功します。この映画ではジムのコメディセンスや人柄が評価され、ジム・キャリーの人気が高まっていきます。
ようやくジムのコメディ能力を披露
『In Living Color』に出演後も、ジム・キャリーは彼の体を使って笑わせるスタイルを貫いていきます。子どもの頃から人前で笑わせてきた彼の才能が、余すところなく開花したのです。
1994年の『エース・ベンチュラ』に出演した際には、ジム・キャリーはすっかりスターとなっていました。
その後の1997年の『ライアーライアー』では、ゴールデングローブ賞の最優秀男優賞にノミネートされます。ここで、ジムは彼のキャリアのターニングポイントが来たと悟ります。
その後の1998年『トゥルーマン・ショー』や1999年の『マン・オン・ザ・ムーン』(伝記映画)でも、いずれもジム・キャリーはゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞します。
『マン・オン・ザ・ムーン』では、ジムは若くして癌で亡くなったコメディアン、アンディ・カウフマンを演じました。
■ コメディだけじゃない、ジム・キャリー
ジム・キャリーはコメディ映画で人気を博してきました。
代表作は多数ありますが、2003年の『ブルース・オールマイティ』や2011年の『空飛ぶペンギン』などは、人々の心に印象深く刻まれているかもしれません。コメディの印象の強いジムですが、コメディ以外の役どころも多数演じてきました。
たとえば2004年の『エターナル・サンシャイン』、2008年の『イエスマン “YES”は人生のパスワード』、2013年の『The Incredible Burt Wonderstone』(スティーヴ・カレルとダブル主演)などが挙げられます。
成功を手に入れたジム・キャリー
ジム・キャリーは長い下積みを経て、ようやく成功を手に入れます。当然ながら、キャンピングカーで暮らしていたころとはくらべものにならないほど、経済的にも裕福になりました。
彼が1本の映画で稼ぐ金額は、下記のような感じになります。
たとえば1996年に、ジム・キャリーは世界で初めて、1本の映画で2000万米ドルを報酬として得るほどになりました。女優で初めてこの大台に乗ったのは、みなさんご存じのジュリア・ロバーツですが、ジムが達成した4年後のこととなります。
現在のジム・キャリーは1億5000万米ドルほどの資産があると考えられています。幼いころの貧乏時代からは、考えられないほどの成功を手に入れたわけですね。
【参考URL】http://www.neatorama.com/2012/10/07/Jim-Carrey-Once-Wrote-Himself-a-10-Million-Check/
http://www.imdb.com/name/nm0000120/bio
http://www.imdb.com/name/nm0000120/bio?ref_=nm_ov_bio_sm
http://www.forbes.com/lists/2006/53/HONS.html
http://www.networthenvy.com/jim-carreys-net-worth
なんで大ヒット作のマスク出てこない?
それな