ラリー・エリソンという人物をご存知でしょうか。日本では彼の名前はまだ知名度が低いかもしれませんが、彼が運営している会社名は、皆さんご存知かと思います。
そう、その名も「オラクル」。有名なシステム会社ですね。その会社のCEOが、ラリー・エリソンなのです。
彼は2014年の世界長者番付5位とにランクインされています。
そんな『超』がつくほどの大富豪であるエリソン氏。人生がずっと順風満帆だったわけではありません。辛い少年時代~大学時代を過ごし、大学を中退した後は自身でIT会社を立ち上げます。
それが軌道に乗り、今では世界中でもトップクラスの人材を魅了しているIT企業となり、エリソン氏自身も世界トップクラスのセレブリティとしての地位を確立したのです。
決して恵まれていたわけではなかった幼少時代から世界屈指の億万長者にまで上り詰めたエリソン氏。その成功までの道のりを探って見ましょう。
エリソン氏の生い立ち
かわいそうな環境
ローレンス(ラリー)・J・エリソンはニューヨークのブロンクスに生まれました。彼が9ヶ月の時に肺炎を患い、どうしていいかわからなかった彼のまだわずか19歳の母親は、彼をシカゴの親戚の家に養子にするのです。
ローレンスはシカゴ南東部にある2ベッドのアパートで育てられました。エリソン氏が12歳になるまで、彼は自分が養子であるということを知らずに過ごしたのです。彼の養父は不動産事業をしていましたが、世界大恐慌の時期に事業が倒産。
その後他会社の監査役として生計を立てていきます。少年時代、ラリー・エリソンは自立心が強く、反抗的な態度で養父とよく衝突します。
頭脳はばつぐん
小さい頃から、彼は数学と科学に秀で、イリノイ大学では年間の最優秀生徒として科学部門で表彰を受けます。
大学二年生の期末テストの時期にエリソン氏の養母が亡くなり、それによって元気をなくした彼は学校を自ら退学します。
次年の秋にはシカゴ大学に再入学するのですが、一学期目が終わる頃には再び中退をするのです。
彼の養父は再度大学に入学するよう彼を説得しますが、彼は既にシカゴでコンピューターの要素をしっかりと学んだのでした。
様々な知識を蓄えていく
そして彼はそのスキルをカリフォルニアのバークレーにまで持って行きます。この時彼はファーストフードを食べれるだけのお金と、ガソリン代しか持っていなかったのです。
それから八年間、エリソン氏は仕事を次々と転職し、ウェルスファーゴ銀行や消防署のシステム部で働きます。そして彼がアマンダル・コーポレーションでプログラマーとして働いていた時に、最初のIBMのメインフレームシステムの構築に携わるのです。
ついに起業
1997年、エリソン氏と他の2人の同僚、ロバート・マイナーとエド・オーツは自分達の会社を設立し、「ソフトウェア開発ラボ」と名づけるのです。
当初から、エリソン氏はCEOとしての役割を果たしていました。エリソン氏は「大銀行のためのデータ・リレーショナル・モデル」というエドガー・コッド氏による著書で、コッド氏がIBMで開発したコンセプトについて説明している一冊の本と出合います。
その中にあるストラクチャード・クエリ・ラングエッジ(SQL)というコンピュータの言語に、コッド氏の会社の従業員は誰もビジネス性を見出せなかったのですが、ここでエリソン氏は、SQLへビジネス性を見出したのです。
エリソン氏と彼のパートナーはCIAへのリレーショナル・データベース管理システム(RDBMS)を構築する2年間の契約を取り付けます。このプロジェクトのコードネームがオラクルだったのです。
彼らはそのプロジェクトを一年も早く終わらせ、残った時間で自分達の会社のために商用アプリを開発する事ができたのです。また、自身の会社で開発したRDBMSもオラクルと名づけました。
爆発的に成長していく
1980年、エリソン氏の会社の従業員はたった8人で、年商はわずか1億円ほどだったのですが、次の年にIBMgaオラクルをメインフレームシステムとして採用したことからオラクルの収入はそれからの7年間、毎年二倍ずつ増えていったのです。
会社の年商が増え続け、軌道に乗ってきたためエリソン氏は会社名をオラクル・コーポレーションと会社の目玉商品の名前に付け替えました。
オラクルは1986年に株式公開され、最初のIPOで31億円を記録します。しかし、会社の情熱溢れる若手社員が普段から収入を多く報告している事がわかり、1990年には株式公開から初めて、事業が下り坂となります。
業績悪化の危機へ
オラクルの市場資本は80%も下降し、会社は破産のふちに追いやられます。エリソン氏は会社が劇的な変化を遂げなければならないという事実を受け入れ、会社の役員を当初のスタッフから、更に経験を積んだ役員へと入れ替えます。
会社創設から初めて、エリソン氏はマネジメント側のビジネスをプロに委任し、自分のエネルギーを商品開発へと注ぎました。
そして完全復活へ
そして新バージョンのオラクル7のデータベースプログラムが1992年にリリースされ、それがオラクルを、データベース管理ソフトウェア業界でのリーダとしての地位を確立させるのです。
そうしてオラクルはわずか二年で、当初の時価総額に値する株価を取り戻しました。
エリソン氏の素顔
そうしてオラクルは今でも成功し続けていますが、エリソン氏はその後プライベートでの災難にいくつか見舞われます。
アウトドア活動をこよなく愛するエリソン氏。彼がボディーサーフィンとマウンテンバイクを楽しんでいる途中に重症の怪我に見舞われます。
大手術の結果エリソン氏は回復を見せ、彼の78フィートもある「サヨナラ号」というヨットでのレースの再開や、自身のプライベートジェットでのアクロバティック演技の練習を再開します。
1998年にエリソン氏とサヨナラ号はシドニーレースで優勝を果たします。エリソン氏はBMW・オラクルレースチームのメインサポーターで、アメリカズ・カップ競技大会の重役を務めているのです。
彼の「ライジングサン」と呼ばれるヨットは450フィート(約137メートル)もあり、世界中で所有されているヨットの中でも最も大きいヨットの一つなのです。
何年もの間アメリカズ・カップ・ヨットレースでの勝利を追及し続けた結果、エリソン氏はついに2010年に勝利を果たします。
近年、このレースは三年に一度ほどしか行われていません。ゴールデンゲート・ヨットクラブとエリソンのチーム・オラクルによって代表されているアメリカチームは2013年9月に、2010年に勝ち取ったカップをかけて敵チームと対戦します。
この時、エリソン氏の主張により2013年のコンテストはサンフランシスコ湾で行われました。その結果、チーム・オラクルはレースで優勝し、その後次々と敵を倒していくのです。
ちょうど、エリソン氏がオラクルを立ち上げ、オラクルが勢いに乗っていったように。
まとめ
そんな趣味に情熱を燃やすエリソン氏の素顔が、このヨットレースから、伺えますね。幼少期は、自分が養子だと知り、精神的に不安定な幼少時代を過ごしたエリソン氏。
成長するにつれ才角を現した科学の分野で起業し、破産の間際にまで追い込まれながらもその後急激な立ち直りを見せ、現在のオラクルの確固たる地位を確立しています。
変化の際にそれをきちんと受け止め、改善を行うことで、素晴らしい立ち直りを見せたのですね。
ビジネスだけでなく、趣味にも情熱を燃やすエリソン氏。どんなに怪我に見舞われても、破産の淵に追い込まれても、そこからめげずに追い返して行くスタイルが、エリソン氏をセレブとしての地位へと押し上げたのではないでしょうか。
【参照URL】http://www.achievement.org/autodoc/page/ell0bio-1
誤字脱字を直せよ。