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許家印  中国不動産業界トップ・慈善活動家

2015/01/05
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その鋭い先見の明で中国不動産業界のリーダーとなってきた許家印。慈善活動家としても知られています。一体どんな人物でしょうか?

生い立ち

農村出身の彼は、1歳の時に母親を病気で亡くします。

子供の頃の彼は、落ち着きのないわんぱくな子でした。自分より小さな子を引き連れては、「起立!前へ習へ!」と自分がリーダーになり軍隊ごっこをしていました。

好きなことは科学。小学生の頃よく鉄の破片でスイッチを作り、いらなくなった電線、針金を捨てられた懐中電灯につなぎ、小さな家庭用照明を作ったりしていました。

農村の若者にとって、自分の将来を変える唯一の手段は学校に行くこと、進学することです。彼の家族は節約に努め、彼が高校を卒業できるようにします。

彼は2年間農村にとどまることになります。その間、従兄弟と共に、ちょっとした商売をします。石炭や米、その他の品物を、別の街へ持っていき、差額で利益を得る。という簡単なものです。

その後1977年、動乱の中国で大学入試制度が復活。彼も受験します。しかし1年目は時間がなく、十分な準備で臨むことができず、不合格。農村から出たくて仕方なかった彼にとって、甘んじて受け入れることのできない失敗と感じるほどでした。

翌年、猛勉強を開始。かつての高校で開かれていた受験専門の補習に参加します。近くの古い部屋を借り、ツギハギだらけの布団で眠る生活です。

一番記憶に残っているのは、学校に持っていく昼食。彼は、中国人がよく食べる小麦粉で作った中身のない甘みもない饅頭を持参するのですが、3日目にはカビが生えてしまいます。それでももったいなく捨てられず、カビをとって食べたのです。

5ヶ月後、身長178センチの彼が体重45キロに痩せるほど必死で勉強しました。その甲斐あって、見事合格。この時の彼の成績は、市で上位3番目でした。

念願かなって武漢鋼鉄学院[現在の武漢科技大学]に合格。彼の専攻は金属精錬系`金属材料・熱処理‘でした。どうしても農村から離れたかった彼は、仮に成績が思わしくなくても、村の戻らずに、鉄鋼工場で働けるだろうーと考えたのです。

大学での彼は、成績の良い学生でした。彼を教えた教員は振り返ってこう語っています。「許家印は勤勉に学びよく考え、視野の広い、細かな点に至るまできちんとした学生だった」と。

こんなエピソードがあります。

大学時代、奨学生だった彼の唯一の贅沢は、武漢名物の麺を食べることでした。ところがある日、彼がその麺を食べていると、先生から「奨学生が1毛[1毛=1元の10分の1=当時15円]もするのを食べているのか!と批判されてしまったのです。今でも武漢の麺は彼の大好物です。

製鉄会社に就職

1982年、大学卒業と同時に、鉄鋼工場に就職します。2ヶ月後、彼は`生産管理に関する300条‘ を打ち出します。その中の一つに、`150度審査法‘というものがあります。

`夜勤の際、椅子に座って150度以上、上体を反らしていたら、寝ているとみなして罰金‘というものです。この社内規則はのちに多くの工場で取り入れられ、その結果彼は`賢い人‘`管理に向く人‘として知られるようになっていきました。

そして山に囲まれ、周囲に何もない鉄鋼場で10年を過ごします。

深センへー新たな人生を求めて

1992年、2万元を手に深センに行き、新たな人生を始めようとします。仕事を探すため、自分で作った30ページにも及ぶ履歴書を持参しあちこち訪ねて回ります。しかし3ヶ月経っても何の成果もありません。

その後ある人の提案のとおり、履歴書を2ページに簡略します。するとすぐに効果があり、何社かと面接することができました。そのうちの一社、`中達貿易会社‘ で働くことになります。

その社長の人柄に惹かれました。きっとこの人から多くを学ぶことが出来るはずだと。彼は今でも当時の社長に感謝しています。

この会社で彼は営業員として働き始めます。ある日、深センに着いてまだまもない彼は、同僚とともに広州に営業に出かけます。この時初めてタクシーに乗りました。彼は真面目かつ旺盛な開拓精神で、短期間のうちに事務所主任を任されるようになります。

不動産業へ

1955年すでにその貿易会社の社長になっていた彼は、会長から広東省の不動産業へ進出するようにと遣わされます。そこで彼は、こ広東の経済発展の速さを目の当たりにしたのです。

こうして一人の運転手、一人の経理担当者、一人の営業マンを連れて、新たな会社が立ち上がったのです。

彼らがまず広州で始めたのは`宝石の島ガーデン‘ と名づけた、マンション。大型マンションが主流の広州にあって、彼の発案した`小さめ、定価価格‘ 戦略が大人気。売り出し前から大きな反響を呼びました。

`年内着工、年内売り出し、年内に居住開始‘をやり遂げたのです。

それ以前、不動産の経験は全くありませんでした。しかし1997年、起業を決意します。

`宝石の島ガーデン‘は母体会社[中達貿易]に2億元にも上る利潤を産んでいたのに、彼の給料はたったの3000元ほどだったのです。以前の会長との長い話し合いの末、彼は独立する時が来たと判断します。

こうして以前の会社から一切支援を受けることなく、ただ7,8人の従業員だけで、独立起業に至ったのです。こうして`恒大実業集団‘ が誕生しました。

恒大実業集団

恒大実業集団がまず手がけたのは、`ゴールドサファイアガーデン‘ 高級マンションです。

同時に低価格マンションも売り出し、毎日マンションを購入しようという人々で行列ができました。こうして日々一億円という奇跡的なセールス額を生み出したのです。

その後3年間、急速に発展し次々と都市開発を進めていきます。2003年までには13の開発計画、[延べ面積300万平方メートル、延べ建築面積500万平方、200億元に及ぶ投資計画]をすすめ、広州の不動産業トップ。中国全土でも10位以内になったのです。

倒産の危機

2008年、世界的金融危機の影響を受け、恒大実業集団‘の株価が暴落します。

前年、大量の人材を投入し新たな土地を購入したばかりでした。当時、業界の10人中9人が`百日で巨大企業‘の恒大は間違いなく倒産すると予測し、その創業者の許家印について、`失敗者、かわいそうな野心家‘と言われ続けました。

その困難な時期、900名を超える中級管理職以上の一人として、恒大を離れなかったのです。こうしてその危機的な時期を乗り切ったのです。

2009年 香港市場に進出。

慈善活動

農村から出てきて多くの苦労をしてきた彼は、社会的責任も意識します。1998年以来多くの慈善活動、文化・教育活動に多額の寄付をしてきました。その一部は以下のものです。

1998年 洪水に見舞われた地域の復興に800万元。
1999年 新疆地区の開発計画に800万元。
2000年 国の開発計画に600万元。
2001年 援助の必要な学生のため、広州市教育委員会に600万元
2004年 広東省の、貧困地区住居改善計画に1000万元
2005年 卓球の世界選手権に400万元
2008年 四川地震災害地域へ1000万元
2013年 フォ-ブス社リストにて 中国慈善活動家1位

中国サッカーへの期待

2010年 社内会議である決議をします。プロサッカーチームを持つのです。

中国サッカーは強くありません。また彼自身、サッカーが好きなわけではありません。自社に属する選手の名前も知りません。彼にとっては これも一つの投資なのです。またとない宣伝の機会になると。

大型の試合の際には、`513‘の報酬罰金制度で、選手を激励します。勝利したら500万元の報奨金。引き分けの際は100万元の報奨金。敗退したら300万元の罰金。史上例を見ない高額の報奨制度です。

しかしプロサッカーを支援する最大の理由について、彼はこう語っています。「中国サッカーと中国経済は釣り合わない。自分たち恒大のような実力のある企業は、責任を持つべきだ」と。

多くの著名企業家がそうであるように、彼も若い頃多くの苦労を重ねてきました。それが彼を逆境に強く育てたのかもしれません。加えて、生来の活発さ、リーダーシップ精神が合わさり、記録的ともいえる業績を生み出してきたのです。
 
【参考URL】http://www.lz13cn/lizhirenwu/20824.html
http://www.lizhi14.com/lizhi/8984.html

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この記事に対するコメント
  1. 名無しさん より:

    中国不動産バブルの代表格みたいな人よね
    バブルといっしょに資産も膨れ上がっていったんだけど、
    資産ベースが不動産なだけにいったんはじけると萎むのも高速なんよね

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