13億人を抱える中国市場で、最大の商業施設開発を展開する万达集団[万達グループ]会長、王健林。どのようにして現在の成功に至ったのでしょうか?
子供時代
1954年、中国四川省綿阳市で公務員の両親の下に生まれます。
父親は、建設省林業局に勤める職員だったので、当初彼の母は息子に`建林、と名づけました。
1958年彼が4歳の、時、父親は四川省林業庁の指示のもと家族を連れて、原始林の生い茂る大金[現在は金川]に移動し、その後14年間、山林の中での生活を送ることになります。
山の中とは言え、生活が厳しかった1950年代、彼の一家はこの移動によって、飢えを経験しないですみました。彼の母は、まだ開発されてない荒れ山の中に畑を作り、うさぎを飼い、家族が食物に困らないようにしたのです。
他の地域では餓死者も出るほどでしたが、彼らは一週間に一度は兎を食べ、飢えを経験することなくすみました。
リーダーシップ
両親が仕事に忙しい中、四人の弟の世話はすべて長男だった彼に任され、こうして彼のリーダーシップ精神が培われていきます。
子供時代の友人は彼についてこう語ります。「規則を守るのが苦手で、集団行動が苦手な子だった。」わんぱくで、自分の考えを持ち、独立心の強い子だったーというのが周囲の印象です。
中学校に上がりますが、林業局からの人員募集があり、彼は学校を辞め働きに出ることにします。緑深い林の中、植樹のため土を掘り、樹木を伐採し、伐採したを木を炭にする。そんな街の若者たちが嫌がる苦労の多い仕事を一年間黙々と行います。
一年後彼は軍隊に入ることを志望し、林業局の仕事を離れます。彼の父親が軍人経験者だったことが大きく影響しているのでしょう。
稀な反抗的人物
1971年、東北吉林省。四川省からの新人達が配属を知らされます。上官はまず彼以外の二人を自分の部隊に選びます。
そして痩せて小さかった 王健林にこう尋ねます、「偵察兵になりたいか?」彼は迷うことなく「はい」と答え配属が決定します。こうしてやってきたチャンスをすぐつかみ、果敢に応じる彼の性格は、後々も大きく発揮されていくのです。
この期間に彼は自分の名前を`建林・から`健林・と変更します。自分に意思で自分の道を進み始めたのです。
軍隊の中においての彼は、スポンジが水を吸い込むかのように軍隊内の規則をどんどん吸収していきます。そしてその中で学んでいった幾つかを、後のビジネスでも活かすことになります。
反対意見
1978年には昇進し、大連陸軍学院で学ぶ機会を得ます。子供の頃からわんぱくで独立的だった彼は、黙って講義を聞いていません。何度も反論したり、違う意見を述べたりし、教師が返答できないこともしばしばでした。
こんなエピソードがあります。
ある軍事講義の中で、彼は理由とともに独自の反対意見を述べます。
それは今まで何年も教えられてきたものと明らかに違うものでした。しかしその意見は一理あり、翌年、彼を担当していた教師によって教材に取り入れられ、2004年の体制変更までずっと採用されていたのです。
1979年8月、大連陸軍学院卒業。成績が優秀だったため学校にとどまり、仕事をすることになります。さらに彼の文章力が買われ、学院の宣伝広報部での仕事を任されます。
こうして閉鎖的な軍事学校の中、大学の教授・職員、政府関係者といった外の世界との接触を多く持つようになっていきます。
1986年32歳の彼は学院の管理副所長に昇進。しかし、彼はこの年辞職し、軍事学院を離れます。後に彼は当時のことを聞かれ、こう言います。
「もし転職していなかったら、良くても一人の軍人に過ぎない。それに何の意味がある?」と。折しも中国国内では改革路線が進み、経済発展が目覚しい頃でした。
起業
転職後彼は大連市西岡区の副主任となります。[日本で言う区役所副所長] 周りから見れば、安定した公務員、前途安泰な立場です。しかし、彼は落ち着いて安定していることを好みません。彼の人生には、挑戦、刺激が必要なのです。
1988年、またとない、しかし決して簡単ではない機会が訪れます。
またとないチャンス
政府の足元に属する大連市西岡区住宅開発会社が、149万元の負債を抱え込み、破産の危機にありました。これに頭を悩ませた西岡区の役所は、`この会社を立て直すことに成功したら会社ごと譲渡する、という策を講じたのです。
しかし誰もこの話に乗る人はいません。現状維持で満足できない王健林が応じました。この会社が後の万达集団の前身となります。
何年も後この時を振り返って、彼はやはり同じ口調でこういっています。「区役所の中で、良くても区長か、副市長に過ぎない。それに何の意味がある?」
当時この会社は国の援助政策を得られず、資金不足に陥っていたのですが、王健林は国有企業に務める軍人時代の友人からの助けと、同じく銀行に務める軍人時代の友人からの資金援助を得て立て直しに取り組みます。
そうして彼はある地区の改造計画から一定の利益を上げることができました。
こうして1988年彼が手がけ始めてから、会社は赤字から黒字に転換。この事によって、西岡区行政から彼個人に15万元の奨励金が出されました。この時、彼は受け取ったすべてを共に働いた従業員で分けています。
1991年 国営企業民営化国策の中、大連では3企業が選ばれ、東北地方での株式制度導入の試金石とする計画が打ち出されます。一旦これに選定されると、会社は国営企業ではなくなり、職員は国家公務員から一般のサラリーマンになることになります。
当時、誰も望まないことでした。しかし王健林は違います。現状に甘んじない彼は、買ってでます。
1992年8月 `大連市西岡区住宅開発公司`は`大連万达房地産集団公司`として生まれ変わります。社内の国有資本はなくなり、完全に民営企業となったのです。
旧市街地の住宅開発計画。他社が誰も手掛けようとしなかった案件です。しかし彼は今までの規定とは異なる方法を試します。採光をよくし、アルミサッシを取り入れ、防犯窓格子を取り付けました。これが当たり、万达グループの不動産事業は安定していきます。
100年起業を目指して
住宅不動産業として始まった 大連万达房地産集団公司ですが、王健林は言います。
「住宅不動産の好景気はいつまでも続かない。世界的に見ても、だいたい3,40年で市場は飽和状態になっている。だとしたら、自分や仲間が60,70歳になったとき、どうなっているか?退職金は?医療保険は?」
当時社会保障が充分に進んでいなかった中国にあって、こうした問題は切実です。彼が目指すのは`100年企業・ 数十年ではなく、長期にわたり安定し、発展し続ける企業なのです。
住宅不動産から商業施設開発へ
100年企業、この方向性の下、事業の拡大を図ります。2000年大型商業施設開発。しかし誰の賛成も得られません。大型総合ショッピング施設というのは、当時中国ではまだ誰も試みたことがなかったのです。
彼は3年間に関係する役所の222人に打診。沈陽省省都の沈陽市と吉林省省都の長春市に大型ショッピングセンター建設へとこぎつけます。
しかし当時の彼、及び仲間たちは、誰も商業施設についての知識・経験を持ち合わせていません。そのため失敗が続きます。契約の不備、不履行等々。
こんなこともありました。テナント誘致後、そのショピングセンター事業から撤退してしまったため、テナントを買い取った店主たちもどうして良いか分からず、危うく万达グループは商業施設開発事業からの撤退に追い込まれるところでした。
彼は毎週末大小の会議を開き、関係する一人一人から意見を聞き、結果、株主会の席上、自分の間違いを認めます。
`今回の問題は自分一人の責任だ。この方法ではきっと問題が発生すると分かっていながら、行った。その場をしのげれば良いと考え、後先のことを真剣に考えていなかった`と。この後彼は商業施設経営を強化していきます。
2002年 1年間に渡る商談の末、中国に進出して間もない世界最大スーパーマーケットチェーン、ウォルマートから「試してみよう」と提携の同意を得ます。こうして長春市に初めて海外有名企業誘致を成功させたのです。こうして商業施設開発に本格的に進出します。
現在
今や、中国東北地方のみならず、国内85箇所に万达広場・複合ショッピング施設を展開。国内最大の商業施設経営企業です。大型ショッピングセンターを中心とし、五つ星ホテル、ビジネスエリア、マンション、レストラン街、映画館、歩行者天国すべてを揃えた総合施設。
現在それら施設の総合面積は世界二位となっています。
2013年 中国富豪NO1
現在、王健林は中国民間商工会副会長、中国企業連合会副会長、中国慈善連合会副会長、中国サッカー協会顧問等を務めています。
まとめ
現在見られる王健林の成功には、中国ならではの社会体制が大きく関係しています。しかしそれだけではないようです。中国でも公務員が安定しているのは同じ。あるいはその待遇は日本以上かもしれません。
それをあえて手放し、大胆に新たなことに挑戦する。機会を逃さない。現状に甘んじない。時代を読む。優れた先見の明。こうしたことすべてが関係しているのではないでしょうか。
【参考URL】http://www.93w.net/gushi/2014/4450.html
http://www.lz13.cn/lizhirenwu/3457.html
http://baike.baidu.com/view/58724.htm?fr=aladdin
近代化の過程で軍隊経験はアドバンテージか
せっかくこういう人が出てきたのにこの後が親の金でビジネススクール卒業したゆとり企業家世代になるんだよな