オプラ・ウィンフリーという女性をご存知でしょうか?アメリカに暮らしている人なら、この女性を知らない人はいないというほどの有名人です。
多くの人にとって、オプラ・ウィンフリーはテレビ界の象徴的人物であると同時に、世界の名だたるセレブの一人であり成功した女性でもあるのです。
しかし、オプラはもともと成功を手にしていたわけではありません。そこには大変な苦労と努力がありました。
家庭環境が悪く、子どもの頃から苦労が多い女性でした。また、社会人になってからも、多くの挫折を味わいました。「テレビ界にふさわしくない」という納得のいかない理由で、テレビのレポーターの職を解雇になったこともありました。
その多大な苦労と努力の結果、大きな成功を手に入れた女性なのです。
ここでは、オプラ・ウィンフリーのサクセス・ストーリーをご紹介します。彼女のサクセス・ストーリーを裏打ちする彼女の生きざまから、私たちは何を学べるでしょうか。
成功の裏に
オプラ・ウィンフリーの生きざまを振り返るならば、彼女の子ども時代のことを無視するわけにはいきません。彼女の偉大な功績や成功、名声や富は、彼女の子ども時代の苦労や努力に裏打ちされたものだからです。
オプラは、テレビ番組の司会者という枠を超え、賞を受けるほどの女優でもあり、またプロデューサーとしても名を馳せています。
メディア界の重鎮であることはもちろんのこと、博愛主義者でもあるのです。そのため、多くの人々から、世界で最も影響力のある女性の1人として認識されているのです。
彼女のような多大な功績を残す他の人物と同様、オプラにも不遇の時代がありました。1950年代のミシシッピから、彼女の人生を振り返ってみましょう。
オプラ・ウィンフリーの子ども時代
メディア界の重鎮、オプラ・ウィンフリーは、1954年1月29日にミシシッピ州コシチューシコの田舎町で生まれました。
農村での少女時代は大変なものでした。オプラは彼女の母親であるVernitaの友人や、男性の親戚たちから性的な虐待を受けていたのです。そのような厳しい子ども時代を終えるべく、彼女は父親Vernonと暮らすためにナシュヴィルへと移ります。
彼女の父親は、ナシュヴィルで美容師として働いていました。
オプラ・ウィンフリーの功績
1976年、22歳の年には、オプラはバルティモアに移り、人気のトーク番組「People Are Talking」の司会に抜擢されます。その後、オプラはシカゴTVに入社し、朝のテレビ番組の司会を務めます。
彼女は自分自身の番組「The Oprah Winfrey Show」の司会を務めることになりましたが、この番組は大変な人気を博しました。なんと25シーズンにもわたって放送され、1986年から2011年まで続く大人気長寿番組となったのです。
また、彼女は自身の専用のテレビネットワークである「Oprah Winfrey Network」を立ち上げることとなりました。
彼女がシカゴTVに入社した当時は、彼女のライバルはフィル・ドナヒュー。大物男性司会者です。しかし、数か月もすれば、あたたかいハートを持つオプラのオープンな人柄がフィル・ドナヒューの視聴者数よりも10万回も上回ることになったのです。
その絶大な人気の結果、オプラの番組は最下位から1位へと評価が上がったのです。
オプラの成功は、アメリカ全土が知るところとなりました。また、スティーブン・スピルバーグの1985年の映画『カラーパープル(The Color Purple)』に出演することとなり、アカデミー助演女優賞にノミネートされることとなったのです。
1986年、オプラは『オプラ・ウィンフリー・ショー(Oprah Winfrey Show)』という番組を立ち上げます。これは全国ネットで放送され、120のチャンネル、1000万人の視聴者を獲得しました。
この番組により、たった1年で1億2500万ドルの売り上げを得て、オプラはそのうち3000万ドルの報酬を得ました。
オプラはすぐにABC放送からこの番組の所有権を獲得し、彼女の独自の制作会社の管理下に置きました。
その制作会社の名前は「Harpo Productions」。Harpoというのは、Oprahを反対にスペリングしたものですね。自身の制作会社から番組を放送する権利を有したことで、彼女はさらに稼ぐこととなるのです。
1994年、ちまたのトークショーは面白さをなくしてきていました。その頃オプラはタブロイド誌にゴシップを書かれることもなく、そのゆるぎない地位を誇り続けていました。
最初は評価が下がったこともあったのですが、それでも彼女の視聴者からは敬意を受け、すぐに人気者の座につきました。
Harpoで彼女が手掛けたプロジェクトには、1989年のテレビミニシリーズである『The Women of Brewster Place(ブリュースター・プレイスの女たち)』などが挙げられます。この番組に、オプラ自身も出演していました。
また、オプラはディズニーとの契約も結びました。最初のプロジェクトは、1998年の『Beloved』。この映画は、ピューリッツァー賞を受賞したトニ・モリスンの小説をベースにして作られたもので、オプラ自身のほか俳優のダニー・グローヴァーも出演しています。
ゆるぎない地位を獲得したオプラ・ウィンフリー
フォーブス誌によれば、オプラは20世紀で最も稼いだアフリカ系アメリカ人で、3年にわたって10億ドル以上の個人資産を持つ黒人の富豪は、彼女ただ一人とのことです。
ライフ誌では、オプラについて彼女の世代の中で最も影響力のある女性だとして称賛を送っています。2005年には、アメリカのビジネス雑誌ビジネスウィークが、アメリカ史上偉大な黒人の博愛主義者として彼女の名前を挙げています。
慈善活動にも尽力
オプラ・ウィンフリーは『Oprah’s Angel Network』という慈善団体を立ち上げたのですが、ここからは5100万ドルがチャリティープログラムに運用されています。
具体的には、南アフリカの女性の教育を支援するプログラムや、ハリケーン・カトリーナの被害者救済のためのプログラムに充てられています。
オプラはまた、子どもの権利運動に尽力する活動家でもあります。
1994年には、当時のクリントン大統領がオプラが国会で提案した法律にサインをし、制定に至ることとなりました。この法律というのは、児童虐待の有罪判決をデータベース化するというものです。
オプラはFamily for Better Lives基金も設立し、母校のテネシー州立大学にも貢献します。
まとめ
オプラ・ウィンフリーは不遇の子ども時代を経て、テレビ界の重鎮となり、そして社会派の活動家として慈善活動に尽力してきました。富も名声も手に入れたオプラの生きざまは、山あり谷ありですが常に前進し、輝きを見せてきました。
社会人として、女性として、人として、彼女が人々に与える影響は限りなく大きいと言えるのではないでしょうか。
【参考URL】http://www.onlinecollege.org/2010/02/16/50-famously-successful-people-who-failed-at-first/
http://oprah.about.com/od/oprahbiography/p/oprahchildhood.htm
http://www.biography.com/people/oprah-winfrey-9534419#awesm=~oDzykLa1alczAA