2009年8月、ひとつのアメリカン・ドリームが花開きました。アメリカの歴史上初のヒスパニック系の米連邦最高裁判事の誕生です。
その人物、ソニア・ソトマイヨールは、ずば抜けた頭脳と強運の持ち主というわけではありませんでしたが、与えられたチャンスを最大限に活かし、強い精神力で困難を克服し、一歩一歩その栄誉ある場所に登りつめたのでした。
そんな彼女はどんな人物なのでしょうか。
貧困と闘病で人生は幕を開けた
ソニアは、1954年6月25日、ニューヨーク州ブロンクスで生まれ、労働者達が暮らす公営団地で育ちました。
両親は二人とも第2次世界大戦後にアメリカに移住してきたプエルトルコ人で、英語が話せないため、ソニアも幼い頃はほとんどスペイン語で育ちます。
母は准看護師として、父は機械工として働いていましたが、収入はささやかでなんとか一家がその日を暮らしていける程度でした。
そんなソニアに突然の困難が襲います。7歳の時に糖尿病と診断されたのです。
母はソニアにインシュリンの注射をする方法を教えました。ソニアが自分で注射ができるようにするためです。それは、ソニアにとって自分のためというより、両親がいがみ合うのを見たくないためでもありました。
アルコール中毒の父の手は始終震え、注射など到底できるわけもなく、長時間労働でくたびれ果てている母はそんな父の姿を見るたびに腹を立てていました。
「私が一番見たくないものは、両親が私のためにケンカすることでした。そのとき悟ったのです。私がしなくちゃいけないことはたった一つ。自分のことは自分ですることだと。」
この決意には、問題を解決する優れた能力、家族への強い思い、そして自立心がうかがえます。そしてこれらの能力が、小さな少女をアメリカの最上級の司法の場へと押し上げていくのです。
そんなソニア一家に更なる不幸が襲います。父親が亡くなったのです。ソニアがわずか9歳の時のことです。
父親の死後、ソニアの母は必死で働き、シングルマザーとして子供たちを育てました。母は、後にソニアが「ほとんど取りつかれたかのような」と語るほど、子供達に高い教育を受けさせることに熱心になります。
英語を喋らせるようにし、学校での学習に役立つようにと、その地域の住民には分不相応な贅沢品、百科事典を買い与えたりしたのでした。
司法の道を目指して
ソニアは、父親のいない寂しさを本で紛らわすようになります。そして、当時の大人気だった探偵ナンシー・ドリューに夢中になり、探偵になりたいと思うようになりました。けれど、糖尿病の彼女には探偵になることはとても無理でした。
そんな時、TVドラマのペリー・メイスンシリーズに出会います。
法廷弁護士が事件を解決していくこのドラマを見て、法律の仕事に興味を持つようになります。特に、法廷で逆転の決定を下す裁判官の姿に強い衝撃を覚え、やがて決意します。「これが私の進むべき道なんだ」と。
ソニアは、働きながらも勉強に励み、1972年に行われたカーディナル・スペルマン高校の卒業式では総代を務めました。
高校卒業後は、アイビーリーグのプリンストン大学に進学します。そこは、女子学生もラテン系の学生もほとんどいなくて、彼女にはまるで異国のように見知らぬ場所でした。
入学当初の頃の成績は散々な結果でした。英語の実力も足りなければ、エッセイの書き方すらわからなかったのです。
ソニアは、それから猛勉強を始めます。必死の努力の甲斐があって、ソニアは1976年、プリンストン大学を最優秀の成績で卒業し、卒業生に授与される最高の学術賞も授与されました。
1976年8月14日、プリンストン大学を卒業した直後に、ソニアは、高校の時から付き合っていたケビン・エドワード・ヌーナンと結婚します。
そして同じ年にエール大学のロースクールに入学しました。1979年に法務博士を取得すると、1980年に司法試験に合格します。いよいよ司法への道を歩み始めるのです。
夢への第一歩
ソニアは、エール大学卒業後、ニューヨーク、マンハッタンで地方検事ロバート・モーゲンソウの下で地方検事補として働き始めます。
ソニアは、初めは判事として法廷に出ることに恐れを感じていましたが、在籍していた5年間の間に万引きから強盗、暴行や殺人までかなりの量の事件を手掛け、ほとんど毎日法廷で過ごしました。
一日15時間も働き、「スーパースターの素質あり」と評価されるほど仕事に励みました。
1983年、ソニアはヌーナンと離婚します。そして、その年に個人で開業し、周りの友人や家族の法律のコンサルタントなどをしながら過ごしました。
1984年、ソニアはマンハッタンで民間の訴訟を扱う会社、Pavia & Harcourtにアソシエイトとして働くことになります。30人いる弁護士の一人として、特に知的所有権や国際法を専門として活躍しました。
民間の訴訟については全く経験がありませんでしたが、彼女はすぐに仕事を覚え、4年後の1988年にはパートナーに昇格し、給料も大幅にアップしました。
順調に会社でキャリアを重ねる一方、元上司のモーガンソウの援助を得て、プエルトリコ法律相談・教育基金団体、ニューヨーク市のキャンペーン財務委員会、ニューヨーク州の融資庁などの公職にも就くようになります。
栄光への階段
ソニアは、子供頃に誓ったように一番なりたかったのは裁判官でした。そのチャンスが彼女に訪れます。
1991年、彼女の公的団体での無料奉仕活動が認められ、上院議員ダニエル・パトリック・モイニハンにニューヨーク南部地区の連邦地方裁判所の裁判官として推薦されたのです。
モイニハンは選挙公約としてヒスパニック系の裁判官を指名するとしていたのですが、ソニアはまさにピッタリの人物でした。
裁判官になれば、収入は法律事務所で働いているときより、大幅に下がります。しかしソニアは言います。
「収入を何とかしようなんて全く思いません。私は公職に戻りたいのです。それに私が子供の時の母の収入を考えれば、十分な収入です。」
1992年8月11日、ブッシュ大統領によりソニアは連邦地方裁判所の裁判官として指名され、満場一致で上院で承認されます。
当時、最年少なおかつヒスパニック系では最初の連邦裁判官でした。1992年から1998年にかけて、約450の案件を取り仕切り、強力な利益に屈して法規から外れるようなことは決してない、鋭く恐れをしらない法律家だと評されます。
さらに1998年10月3日、今度はクリントン大統領に連邦第2巡回区控訴裁判所の裁判官として指名されます。同じ頃、裁判官としての職務に加えて、1998年ニューヨーク州立大学で、1999年コロンビア大学で非常勤として法律を教え始めます。
そして、いよいよ階段の最上段に上り詰める時がやってきます。2009年5月26日オバマ大統領は、ソニア・ソトマイヨールを最高裁判事に指名しました。
この指名は、彼女の発言等を巡って、共和党の保守派が反対したりしたのですが、2009年8月に上院で承認されました。アメリカ史上、最初のヒスパニック系最高裁判事の誕生した瞬間でした。
ソニア・ソトマイヨールという人
まさにアメリカン・ドリームの見本そのものであるソニアは、率直に物事を語り、そのために物議を醸すこともある人物です。常に自分の言葉に忠実であろうとし、正しいと思った事を守り抜きます。
彼女のヨーロッパのお金持ちのクライアントと、自分が今でも暮すブロンクスの住人達を等しく助ける人でもありました。
ソニアは、仕事への熱意と献身を通して、目標としてきたことを全て達成しました。
目標に向かってまい進している限り、夢を叶えることはできる。ソニアは、ヒスパニック系の人々だけではなく、夢に辿りつこうと勉強し、仕事のキャリアを積んでいる人にとって、完璧なロールモデルなのです。
【参考URL】http://www.biography.com/people/sonia-sotomayor-453906#awesm=~oH0JyPh2Xft6hC
http://www.brainyquote.com/quotes/authors/s/sonia_sotomayor.html
http://www.myhero.com/go/hero.asp?hero=sonia_sotomayor2010
http://www.economist.com/blogs/democracyinamerica/2009/05/its_sotomayor
http://en.wikipedia.org/wiki/Sonia_Sotomayor
http://womenshistory.about.com/od/publicofficials/p/sotomayor.htm
http://edition.cnn.com/2009/POLITICS/05/26/sotomayor.bio/
http://www.nytimes.com/2013/01/20/books/review/my-beloved-world-by-sonia-sotomayor.html?_r=0
http://sweetness-light.com/archive/more-background-on-sotomayors-racism#.U50yjPl_uSo
メキシコ・マフィアとずぶずぶの人やん
だれこれ。