トニー・パーカーという人物をご存知でしょうか。日本ではまだあまり知名度は高くないかもしれませんが、アメリカでは現テキサス州のサン・アントニオスパーズというNBAバスケットボールチームに所属するスタープレイヤーとして有名な人物です。
フランス人プレイヤーである彼ですが、よりよいプレイを求めてアメリカに渡り、現在はアメリカでのスターとして活躍しています。
フランス人の彼にとって、故郷を離れ遠いアメリカでプレイする事は、精神的にも決して楽ではなかったはずです。
そんな彼がどうやってアメリカでスーパースターとして受け入れられ、現在ではスパーズファンに愛される存在になったのか、彼の成功の秘訣を見ていきましょう。
トニー・パーカーの生い立ち
ウィリアム・アンソニー(トニー)・パーカーは1982年、五月十七日にベルギーのブルゲスで誕生しました。その後トニーの家族はフランスに移住し、フランスで育ちます。そして彼自身もフランスの市民権を持っています。
彼の父親であるトニー・パーカー・シニアはアフリカン・アメリカンのプロバスケットボールプレイヤーでシカゴのロヨラ大学や海外などでプレイしており、彼の母親であるパメラ・ファイアストーンはオランダ人のモデルでした。
バスケとの出会い
彼の兄弟とは親しい関係を築いており、少年時代は兄弟一緒に彼の父親のゲームをよく見に行っていたのです。
初め、トニーはサッカーの方に興味があり、ずっとサッカーを習いたいと思っていました。
しかしある日国際的なバスケットボール・スーパースターであるマイケルジョーダンのプレイを見てインスパイアされ、自分もバスケットの世界に入りたいとサッカーからの興味がバスケットボールへと切り替わるのです。
また、二人の兄弟であるティー・ジェイとピエレもバスケットボールに従事しており、二人とも大学チームからプロレベルのチームへまで進むのです。
その後バスケットボールの道へと進んだトニーですが、身長があまり高くなかったために彼のポジションは自然とポイントガードへと決まったのですが、スピードと軽快さを兼ね合わせた彼にはぴったりのポジションだったのです。
バスケの才能
プロ・バスケットボールプレイヤーである父親の遺伝子を受け継いだ彼はめきめきとバスケットボールの才能を発揮し、パリの国家スポーツ&体育機構へとスカウトを受けます。
そしてフランスのアマチュアリーグで2シーズンプレイした後、1999年にはパリのバスケットボールレーシングというプロのチームと契約するのです。
2000年の夏にはアメリカのインディアナ州・インディアナポリスでのプロのスカウトや大学のコーチらが集まるナイキ・フープサミットに招待されました。
そこで多くリクルーターの前で、将来のNBAプレイヤーであるダリウス・マイルスやザック・ランドルフ、オマー・クックなどに対抗してプレイするのです。
そんなアメリカンとヨーロピアンのオールスターの中での活躍を見せたトニー・パーカー。多くのリクルーターから目星をかけられます。
そしてアメリカのUCLAやジョージアテック大学からもオファーが来ますが、フランスに残るために、フレンチリーグでプレイします。
その後2001年にはNBAのサンアントニオ・スパーズからスカウトを受けます。2001年11月30日、対ロサンゼルスクリッパーズとのゲームでNBAフランス人プレイヤーの中でタリク・アブドゥル・ワハドに次いで二番目のベスト・プレイヤーに選ばれるのです。
この時トニーはまだ19歳半。史上最年少のベストプレイヤーとして選ばれるのです。
2003年には彼はポイントガードとしてプレイし、その年のスパーズのNBAチャンピオンシップに大いに貢献します。
同年、彼は彼のキャリア史上最高の32ポイントゴールを二回も成し遂げるのです。彼の貢献により、サンアントニオ・スパーズは遂にニュージャージー・ネッツを倒してチャンピオンへと輝くのです。
トニー・パーカー様々なキャリア
そうして着々とスター・プレイヤーとしての地位を確立していったトニー。2003年にはNBAのキャリアで2000ポイント、771アシスト、264リバウンドを達成し、ゲーム平均12.4ポイント、4.8アシスト、2.6リバウンドを記録します。
その後も2003年、2005年、2007年でのスパーズのチャンピオンシップに貢献し、2007年のNBAファイナルではMVPとしても表彰され、サンアントニオスパーズのスタープレイヤーとして多くの地元民に愛されています。
現在ではアメリカのNBAのスタープレイやーとしての活躍が著しい彼ですが、その前からユーロバスケットのチームに所属し、MVPも何度も受賞しています。ゲーム平均19ポイントというハイスコアを叩き出し、優秀なポイントガードとして活躍していたのです。
また、トニーはアーティストも活躍しており、音楽分野でTPというアルバムをリリースしています。
トニー・パーカーNBAでのキャリア
2001年のNBAドラフトの前に、トニーはサンアントニオ・スパーズのサマーキャンプに招待されます。
トニーは当時のコーチであるランス・ブランクスの厳しい練習に圧倒され、ブランクスコーチは最初の10分で、トニーをキャンプから追い出す準備ができていたと言うほど、最初のキャンプでトニーは精神的にも肉体的にもボロボロになります。
しかし、キャンプの終盤になるにつれトニーは実力を発揮し始め、自分の一番いいプレイをコーチに見せ付けることができ、コーチも再びトニーをキャンプへ招待する事になります。
二回目のキャンプではましなプレイをコーチに見せることができ、ブランクスコーチはまだ確信ではないながらも、トニーに賭けてみようと思い、トニーをドラフトで獲得します。
そしてその後サンアントニオ・スパーズで活躍し始めたトニー。レギュラーシーズンでは平均9.2ポイント、4.3アシスト2.6リバウンドと好成績を残し始めます。
パーカーの好成績はスパーズのゲームのテンポを上げ、チームをいい方向に導きます。
特に彼の華麗なジャンプショットは観客へのゲームの見せ所となり、多くのファンがトニーのジャンプショットを楽しみに試合に来るようになります。そしてトニーは2001年、サンアントニオ・スパーズを移籍以来の初のチャンピオンシップに導くのです。
その後スパーズは絶好調のシーズンを重ねますが、そんなスパーズとは裏腹に、トニーの成績は少しずつ落ちていきます。トニーは不安なシーズンを何年か経験しますが、2004年にはブレイクスルーを自ら作り出すのです。
その年、スパーズはニュージャージーネッツのジェイソン・キッド選手をドラフトで取り落とし、肩を落としていたコーチにトニーは自分がチームのスターティング・ポイント・ガードになりたいと申し出ます。
そしてその年、彼はいつにもなくハードな練習に励み、落ち込んでいた成績を取り戻してまたトニーらしい良いプレイを始めるのです。2005年には、トニーはチーム所属後二度目のチャンピオンシップへと、スパーズを導きます。
そして三度目のチャンピオンシップの勝利は2007年に訪れます。トニーは着実にスキルを着け、チームの中でもルーキーとしてではなく、エースプレイヤーとしてその地位とファンからの信頼も確立したベテラン選手となっていきます。
そして2007年にはファイナルMVP賞も受賞し、チームを優勝へと導きます。初めにサマーキャンプでズタズタになっていたトニーはそこにはもう居らず、熱狂的ファン達の前で堂々と語る姿は、ベテランNBAプレイヤーそのものだったのです。
まとめ
最初はサマーキャンプでアマチュアとプロのレベルの違いに驚き、圧倒され、それでもなんとか喰らいついていったトニーですが、プロになってからも、成績が上がらない、辛い時期を経験します。
そんな辛い経験が土台となって、今ではチームの中でもトップクラスでファンも多いトッププレイヤーとして活躍しています。
育った地、フランスを離れ、外国人プレイヤーでありながらも、他のプレイヤーと差を付けて圧倒的なファンからの支持を得ているトニー・パーカー。
辛くてもあきらめず、自分から積極的にアピールし、練習を重ねて実力をつけた時期がバネになったのかもしれません。彼の生き方から私達も大いに学ぶことがあるのではないでしょうか。
【参考URL】http://www.biographybase.com/biography/Parker_Tony.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Parker