ダイアン・フォン・ファステンバーグという名前は知らなくても、体に巻きつけるようにして身にまとうラップドレスで一世を風靡したファッションデザイナーといえば、なるほどと納得される人は多いのではないでしょうか。
2014年はラップドレス誕生40周年にあたります。ラップドレスの女王として名声を博しているダイアン・フォン・ファステンバーグの物語を追ってみましょう。
ユダヤ系の母の教え
ダイアン・シモーヌ・ミシェル・ハルフィンは1946年、ベルギーのブルッセルで生まれました。
父レオンはルーマニア系ユダヤ人、母リリアンはアウシュヴィッツ強制収容所より生還したギリシア系ユダヤ人でした。収容所から解放されて18ヶ月後に娘を産んでいます。母のリリアンからは大きな影響を受けたといいます。
ブルッセルで逮捕され、強制収容所に入れられたとき、リリアンは両親に宛てたメモを通りに残しました。
「心配しないで。きっと帰ってくるわ。どこにいくのかはわかっているけど、ほほえんで行くと思ってね」
当時22歳だったリリアンは、収容所の経験さえもポジティブにとらえようとします。
「収容所の話をしてくれたときは、友情について語ってくれました」とダイアンは後に語っています。収容所を出たときわずか23kgしかなかったリリアンにとって、18ヶ月後に生まれた娘は勝利そのものでした。
「恐怖を避けることはできません」とリリアンは子供たちに言い続けました。そして、「独立すること、責任をとれること、それが自由の第一歩」だと教えようとしたのです。
ドイツのプリンスと結婚、アメリカへ
母の過酷な体験があったとはいえ、父の事業が成功をおさめ、恵まれた環境で育つことができました。
ダイアンはお嬢様向けの全寮制学校に12歳で入学、その後、マドリッド大学を経てジュネーブ大学で経済学を専攻します。そこで出会ったのがドイツ王室の末裔であるエゴン・フォン・ファステンバーグでした。
しかし、エゴンの一族はユダヤ系の娘との交際を認めようとしませんでした。反対を押し切って結婚した二人はニューヨークに向かいます。1969年のことでした。1970年には息子のアレクサンダー、1971年には娘のタチアナが生まれました。
ラップドレスの誕生
1970年、ファッションデザイナーとしてのキャリアを始めたのは、経済上の必要に迫られたからというわけではありませんでした。母に子供のころに言い聞かされてきた独立を得ようとしたのです。
その当時、高まったフェミニズムの影響もあったのかもしれません。
「独立こそが自分にとって最も大切なことだと思いました。そして独立の一つが自分でお金を稼ぐことだったのです」
マンハッタンの7番街に店を出したフォン・ファステンバーグの名を一躍高めたのが1974年に発表した幾何学模様のラップドレスです。
ヴォーグ誌の伝説的な編集長ダイアン・ヴリーランドにラップドレスの先駆けといえるデザインのドレスを見せたところ、ヴリーランドのスタッフからニューヨーク・ファッションウィークへの参加を勧められたのがブレークのきっかけとなります。
このドレスはまたたくまにベストセラーとなりました。1975年には1週間に15,000着を作成しました。
郊外の主婦から合衆国ファーストレディであったベティ・フォード、フェミニズム運動家のグロリア・スタイネムに至るまで、老いも若きも、文字通り誰もがラップドレスを着用しました。
職場からデートまで、どんなシチュエーションにも着ていくことができました。
「ラップドレスを着ると、女性は自分が望む通り、自由でセクシーな気持ちになれるのです。それにラップドレスなら一分足らずで外にでる準備もできます!」
というフォン・ファステンバーグと語っています。
ラップドレスはフォン・ファステンバーグがデザインしたものと思われがちですが、実はそうではありません。すでにスポーツウェアとして確立されたものでした。
1930年代に個性的なデザインで人気を集めたエルザ・スキャッパレリがデザインしたといわれています。1940年代にはアメリカンルックを確立したとされるクレア・マッカンデールがラップ風のドレスを発表しています。
しかし、膝丈、長袖、ジャージー製というフォン・ファステンバーグのラップドレスが一家に一枚あるといわれるほどの人気を集め、ラップドレスといえばフォン・ファステンバーグを連想させるものになったのです。
離婚後も「フォン・ファステンバーグ」を名乗る
ドイツのプリンス夫妻であるフォン・ファステンバーグ夫妻はマスコミの注目の的でした。
エキゾチックなライフスタイル、サルバドール・ダリからウィンザー公夫妻との交際まで何もかも話題となりました。ニューヨークの雑誌のカバーを飾り、「すべてを備えたカップル。万事順調か」という見出しがつけられました。
もちろん、万事順調ではありませんでした。ラップドレスを発表する前年度の1973年に、離婚します。
フォン・ファステンバーグはマスコミの注目を集めるようなライフスタイルと「フォン」という貴族名がもたらす効果が成功の要因になっていることに気づいていました。離婚後も、「フォン・ファステンバーグ」の名を使い続けることにします。
ケーキの土台は同じでも、飾ってきれいにしてやらないと、おいしいとは思ってもらえないのと同じことです」
劇的なカムバック
最終的には400万枚は売れたと言われるラップドレスですが、80年代に流行が終わります。フォン・ファステンバーグはニューヨークからパリに移住し、スタイル系の雑誌を立ち上げるなど、いくつかのビジネスにかかわっていました。
ところが1990年代後半に劇的なカムバックを果たします。
娘や友人がビンテージ版のラップドレスを着ているのを見たフォン・ファステンバーグは、1997年、ニューヨークに戻り、5番街の高級デパートでラップドレスを売るようになりました。
もちろん、ラップドレスなど時代遅れという声はありました。しかし、デミ・ムーア、マドンナといった有名人がオスカー授賞式にフォン・ファステンバーグのラップドレスを着て登場すると、再び注目を集めるようになります。
テレビショッピング・チャンネルにフォン・ファステンバーグ自身が登場してラップドレスを紹介したところ、瞬く間に完売したというエピソードもあります。
こうしてカムバックを果たしたフォン・ファステンバーグは、ニューヨークのファッション・ウイークでショーを行うようになり、ビジネスを大きく成長させました。
大切なのは自分との関係
20代のサクセスストーリー、50代のカムバック、そして60代になってアメリカ・ファッション・デザイナー評議会の会長に選出され、世界50カ国以上で販売されるなど、なお意気盛んなその生き方は全米女性のあこがれとなっています。
最後にフォン・ファステンバーグの言葉をいくつか紹介してみましょう。
- 女性が自分自身の親友になることができれば、人生は楽になるわ。
- 人生で一番大切なのは自分との関係です。何がおこっても、常に自分といなければならないのです。
- いつも自分といるわけですから、それを楽しまなければ。
- 侮辱されたと思った時は、それを生かして変わるか、隠すしかないわ。
- 強くない女性なんていません。でも強さを隠している女性はいるわね。悲劇が起こった時に突然、強さが表れるの。悲劇が起こる前に強さを見せることをお勧めするわ。
【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Wrap_dress
http://www.biography.com/people/diane-von-f%C3%BCrstenberg-20660945
http://www.goodreads.com/author/quotes/575983.Diane_Von_Furstenberg
http://www.independent.co.uk/life-style/fashion/features/wrap-superstar-designer-diane-von-furstenberg-tells-her-story-801189.html
http://www.ujafedny.org/news/46-diane-von-furstenberg-on-her-work/
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