アジアのハワイとも称される香港島南部、浅水湾にある豪邸ープール・テニスコートを備え、ロースロイスはじめ何台もの名車が並ぶ。この持ち主が香港の宝石王・不動産王として知られる郑 裕彤[テイユウトン/ ZhengYutong]の邸宅です。
大胆さで知られる彼ですが生まれは貧しく、中学校も卒業していないのです。どのようにして現在の彼に至ったのでしょうか?
生い立ち
1925年 中国広東省の貧しい片田舎、貧しい家庭に生まれます。
恵まれない家庭にもかかわらず、両親の彼に対する期待は大きく、着るもの食べるものを切り詰めて、彼を学校に行かせます。
しかし彼が中学生の時、広東省の片田舎にも戦火が及び、一層厳しい生活を迫られます。やむなく彼は学校を諦め、両親とも一家でマカオに避難します。
マカオにて見習い
マカオに移り、生活のため仕事を始めます。当時の彼は背は高くなく、痩せこけていましたが、機敏で楽観的で生活に対してとても希望を抱いていました。
1940年 父親の古くからの友人である周至元が開いた金の店へ、見習いとして送り出されます。
これには理由がありました。両家は既に郑 裕彤を婿に入れるということで合意していたのです。
将来の婿として義父の下での仕事となるわけですが、特別な待遇はありません。ほかの人と何らかわることなく、床掃除・トイレ掃除といった雑用から始まり、空いた時間に店の仕事を習うといったまさに見習いです。
それでも彼は大変良く学び、観察し、一つ一つをきちんと果たしていきます。義父となる周至元は非常に怒りっぽく、爆撃機とあだ名されるような人でしたが、彼は一度も怒鳴られることはありませんでした。
勤勉で賢く、誠実な人となり。まもなく彼は見習いではなく一従業員としてビジネスに加わることになります。そしてビジネスにおいても彼は頭を使うのが得意で、よく外に出かけては同業者を調査し、他店の長所を学び、自社の短所を改善していきます。
3年後、主任を任され同時にその頃周至元の娘と結婚し、いっそう義父のビジネスー金・宝石商ーを助けます。
香港進出
1946年 周至元は香港進出のため、娘婿の彼郑裕彤を香港に遣わします。この時彼は2万元の現金と1200グラムの金を持って香港にやってきたと言われています。そして、皇后大道中148号に一号店`周大福金行‘を開業。
開店当時彼は人事部を担当し、ビジネス成功のため有能な人材を選び抜きます。こうして1950年台半ばまでに経営はこの上なく順調、彼はひとりで金の取引を担当します。
1956年、義父周至元は全ての生産・経営責任を彼に委ね、こうして見習い工から始まった郑裕彤は周大福金店王国のトップになるのです。
当時香港の金取引商は数多く、競争は厳しいものでした。競争を勝ち抜くために彼は考えます。当時一般的だったのが純金99%ーというものでした。彼は純金99.99%というものを打ち出します。99.9%のさらに上をいくものです。
すぐに顧客の反響がありました。しかし、当然ながらコストも高くなっているため、価格を変えずに純金99.99%商品を売るとすれば、かなりの損失です。
しかし彼はこれを広告費と考え、実行。数十万元のマイナスにはなりましたが、2年後、彼の予想通り周大福はその品質と信頼度で知られ、大きな利潤を上げるようになります。
こうしたビジネス成功の中、彼は従業員のことを忘れてはいません。社員の帰属感を高めるため、1960年`周大福金行‘を`周大福有限会社‘と改め、自社の株式を勤続年数の長い社員に分配します。
こうして、店の利益が従業員個人の利益にも直接結びつくようになり、皆はいっそう仕事に力を入れるようになったのです。
金からダイアモンドへ
金の装飾品成功の後、彼は次なるビジネスに乗り出します。
ダイアモンド。当時香港でDeBeers[デビアス][世界のダイアモンド市場を独占している]のブランドで営業しているのは1店舗しかありませんでした。
1964年彼は南アフリカに赴き、デビアスブランドを売る会社を買収。何枚ものデビアスブランドの営業許可証を手に入れます。こうして香港最大ダイアモンド商ともなったのです。
次なるは不動産業
無名だった郑 裕彤は、金・ダイアモンド商として香港実業界でよく知られた人物になりました。彼はそのことに動じることもなく、さらなる進出。
不動産業界です。既に1952年に別荘を購入。その後、香港の繁華街に香港ビルを建設。
1960年代、文化大革命の影響を受け、激動。不動産価格急落。多くの資産家が土地や建物を手放します。この時、優れた先見の明を持った少数の人物が、後の香港の大富豪となっているのです。
郑 裕彤もその一人。彼は香港の将来に非常に自信があり、景気の良さも悪さも、すべての業界において周期的に起こることだと考えていました。
この期に多くの不動産を購入し、1968年には香港一の地所を所有。1970年代、宝石商としてのビジネスも好調な彼は現状に満足せず、不動産開発の一大プロジェクトに着手します。
1970年、他の二人と共に`新世界発展有限会社‘を立ち上げ、彼は57パーセントの株式を所有、最大株主となります。
そして手がけたのが、世界でも超一流の豪華建築となる`新世界中心‘ 香港の海に面する風光明媚な地所に、二つの五つ星ホテル・ショッピングエリア・ビジネスエリア・豪邸を建設するというものです。
この時彼は香港で最高額の地価を支払ったと言われていますが、このプロジェクトは大成功。その後の地価の高騰で現在では当時を上回る10億香港ドルとも。さらに新世界ホテル[NewWorldHotel]・麗晶ホテル[GrandRegencyHotel]の好調な経営。
こうして彼は宝石王としてだけでなく、不動産業においても著名な人物となったのです。
更なる発展へ
彼は簡単に満足する人ではありません。
自ら次の計画`碧瑶湾高級住宅開発計画‘に着手します。50棟の大小のマンション群が立ち並び、子供用遊技場、プール・テニスコートほか様々な施設を併設。山をバックに海に面するこの場所は、香港の高級住宅地として知られています。
1984年、彼は香港貿易発展局と18億香港ドルを投じて`香港国際会議展覧中心[Hong Kong Convention and Exhibition Center]の建設計画に合意します。
このコンベンション・エキシビションセンターはアジアの同様施設の中、最大規模、最新の設備を備えた最高度の建築となる計画でした。
総面積約41万平方メートル、高さ55メートルに及ぶコンベンション・エキシビションセンターを中心に、高級マンション、二つのホテルを併設した複合施設。1980年代香港の代表的建築物ベスト5に挙げられるものです。
しかし数年が経過しても、計画は紙面上のまま。彼郑裕彤は動く気配がありません。周りは不思議に思い始めますが、彼には考えがあったのです。
1986年10月、一大ニュースが世界中を駆け巡ります。イギリス女王、香港訪問!後の香港中国返還に至る歴史的訪問です。この訪問と同時に彼は建設計画に着工すると発表します。
そして予定通り、イギリス女王香港訪問の日に、着工式を行い、なんと女王もその場に姿を現します。彼の狙い通り、こうして彼の名と香港国際会議展覧中[HongKongConventionandExhibitionCenter]とは世界中のメディアによって報道されたのです。
1990年代には中国国内の開発計画にも巨額の投資を開始。さらにアジアテレビ局の買収、アメリカStouffeグループホテル、ヨーロッパPentaグループホテルを買収。現在彼のグループ企業は香港最大のホテルグループでもあります。
ビジネス倫理
現在の成功に至った道について聞かれると、彼はこう語ります。
「思うに、幸運はおそらく一度か二度やってくる。しかし、一生付いてくるわけではない。実際のところ人生の中で勤勉さこそ一番大切だ。次に誠実さ。この二つがあれば、あなたのビジネスは基礎が固まったも同然でしょう」と。
確かに彼自身大変勤勉な人です。毎日の平均仕事時間は12時間以上。部下の教育も怠りません。
ビジネスは一定の利益を上げることが必須だ。しかし、利益だけを追い求め、質を落としては、顧客を騙してはいけない。不正が発覚した従業員は、すぐにクビです。同時に中国人ならではの人情を、良い仕方で会社に取り入れています。
勤続20年以上`周大福‘に勤める社員はこう語っています。
「リストラはない。彤兄はとても人情の厚い人。勤続10年で表彰がある。周大福の従業員のうち50人は勤続40年の賞を得ている。さらに、広東省順徳の工場で働く従業員にも香港に出てきて働くチャンスが与えられている」
何度も転職する人が多い中国文化の中で、勤続年数が長い従業員が多いというのは、企業文化の表れでもあるのでしょう。
与えられたチャンスをさらに活かしていく。現状に甘んじない。そして優れた先見の明。こうして婿養子の立場で見習工から始まった彼は、香港の宝石王また不動産王として知られる大富豪になったのです。
【参考URL】http://lizhi.97yjs.com/lzgs/3514.html
http://www.zhlzw.com/lz/gs/011/82636.html
http://www.mrgushi.com/chuangye/574.html