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世代と国境を越えた歌姫DIVA ダリダ

2015/01/14
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アラブの春の報道エンディング

2011年「アラブの春」と呼ばれるエジプトの革命が起きました。世界中のメディアが首都カイロに押し寄せ民衆のデモの様子を生中継しました。

アメリカのニュース番組「デモクラシー・ナウ」でも、カイロのタハリール(解放、革命の意)広場でエジプト人の老若男女がムバラク大統領辞任を求めるプラカートを掲げ声高らかに行進している模様を特集しました。

なぜこういう事態に陥ったのか、エジプトの近代史はどういうものだったのか、民衆はなぜ怒っているのかということを一通り説明し、そしてエンディングにある歌を流しました。それはダリダの「Helwa ya Baladi(私の美しい故郷(祖国)」です。

「私の想いはいつだって祖国へ帰ること、
あなたがいる国へ帰ること
祖国での思い出は決して忘れていないわ
私の心はあなたと祖国への想いでいっぱい」

ダリダのどこか哀愁漂う確かな歌唱力の低声の歌声が聞こえてきたことにより、視聴者にとって今回の「アラブの春」のニュース映像がよりドラマチックだったように感じられました。

ダリダの「私の美しい故郷(祖国)」の選曲には、思わず手を叩きたくなりました。この歌以外に他はありえません。

ダリダの歌声は、そのアラビア語の歌詞が分からなくても万人の胸を打つ力がある上、この「私の美しい・・・」のメロディは非常に素直で外国人の私たちにも聞き易く、すっと胸に染みてくるのです。

そして何よりも、ダリダは唯一といっていい、アラブ、イスラエル、ヨーロッパ、北米、アジアで愛されているスーパースターなのです。

世界中の視聴者を相手にしているニュース番組が「アラブの春」を報道するのに、ダリダの歌を使用したというのには見事だったとしかいいようがありません。

生い立ち

1933年1月17日にカイロのショブラ生まれのダリダの本名はYolanda Cristina Gigliotti (ヨランダ・クリスティーナ・ジリョッティ)。

両親はイタリアからの移民です。ムッソリーニ政権によるファシズムの時代であったため、ブルジョア階級の両親は国を出ることを選択し、地中海を渡りエジプトに入ってきたのではないかと思われます。

夫婦が自分たちの住まいとしてカイロのショブラを選んだのは、そこには国際的感覚を持つエジプト人たちと大勢のヨーロッパからの移民たちが理想的に仲良くうまく暮らしていた地区だったからです。

ダリダは生後10か月の時に目の病にかかります。恐らく斜視だと診断されたのではないでしょうか。わずか4歳の時になるまでに大きな手術を二回も受けています。

「盲目になるんじゃないかしら」

夜灯りを消してベッドに入り、朝になって自分が目覚めてももしかして視界は真っ暗なままなのではないか….。幼いダリダは恐ろしくてたまらず、両親に頼んで毎晩電気を付けたまま眠りました。

しかし、カイロは停電がたびたび起きており、いきなり電気が消える度に冷や汗が流れました。

視力が弱いということで眼鏡を着用します。しかしエジプトでは眼鏡をかけた子どもは少なく、彼女が眼鏡をかけて外に出ると近所の子どもたちにはやしたてられました。

このことが嫌でたまらなかったダリダは12,3歳の時に自分の眼鏡を窓の外に強く投げ捨ててしまいます。視界がぼやけてはっきり見えなくて生活に困ることよりも、眼鏡を着用して自分の容姿が醜く映り周囲に馬鹿にされることの方がずっと我慢できませんでした。

かけがえのない父との時間

この悩みをのぞけば、少女時代は大変幸せなものでした。仲の良い二人の兄と、優しい専業主婦の母親と家庭を大事にする音楽家の父親のいる家庭は居心地のよいものでした。

家族全員とうまくやっていましたが、とりわけ父親と過ごす時間が彼女にとって一番かけがえのないものでした。

父親はカイロ・オーケストラ楽団の初のバイオリニストであり、ダリダはいつだって父親がヴァイオリンの練習をするのを自宅の部屋で聴いていました。

ある程度大きくなってからはカイロ・オペラ座まで父親の演奏をよく眺めに行きました。父が聴くレコードも全て聴きました。音楽の影響全般を父親から受けたといってもいいくらいです。

語学力が堪能

両親は娘の進学先にイタリア系のミッションスクールを選びます。やはりイタリア語の勉強とカトリックの教えを自分たちの娘に身に付けさせたかったのです。

ダリダは学校と家庭ではイタリア語を、外ではアラビア語とフランス語を喋りました。

エジプトはフランスが準公用語のように使われており、エジプト人同士フランス語で会話をするということもよくあります。テレビでもフランス語放送の番組も流れています。(ただし最近は英語の方が比重が大きくなってきています)

英語は近所のイギリス人たちと会話をするのに喋りました。

のちに七か国語で歌を歌うようになりますが(うち5か国語バージョンのアルバムも発表)、複数の言語を口にし耳にする環境で育ったというのは大きな影響だったかもしれません。

目の手術によって自信を持つ

10代に入ると再び目の手術を受けます。これが成功し、ようやく眼鏡無しで不便なく生活を送れるようになります。

嬉しくてたまりません。

それまでうつむき加減でもじもじするばかりしていたのですが、眼鏡フリーになったことで自分の容姿に自信を持てました。胸を張って堂々と歩き表情豊かによく笑うようになります。

すると人々が自分に近づいてこようとする、友達になろうとしてくる、街中では年頃の男の子たちがウィンクをしてきたりプスプス口をすぼめて音を立て、自分の注意を惹こうとしてくる…。

「私はもしかして可愛いんじゃないかしら」

わくわくします。それまであまり気にかけていなかった自分の身だしなみも整えるようになり、どんどん垢抜けていきます。

調子に乗ったダリダはもっと注目を浴びようと学校の演劇部に入部します。ここでダリダは舞台に立ち人々に注目され拍手をされる快感を覚えます。

学校の中や近所だけではなく、もっともっと多くの人々の注目を浴びたい、目立ちたいー
ダリダは誰にも内緒で地元の美少女コンテストに応募をします。

ところがこれはすぐに両親にばれてしまいます。

自信に満ち溢れた態度のイタリア系美少女の写真が、後日新聞に大きく掲載されてしまうのです。その写真に写っているダリダはなんと水着姿でコンテストのパレートを練り歩いている姿。

この写真は近所中にスキャンダルとして噂が広まり、両親はこっぴどく娘を叱りつけました。

「浮ついたことは忘れるんだ、ミッションスクールを出たら秘書学校に入るんだ。そのための受験勉強に専念しなさい」両親はとくとく言い聞かせます。

その後は彼女の行動範囲は狭くなり、自室の机に向かい教科書を広げる時間が長くなりました。

「ああ良かった、この娘は反省してくれたんだ。ちゃんと地に足がついた道に歩んでくれるんだ」父親も母親もすっかり油断し安心しきりました。

ところがそれはダリダの「演技」でした。

「私みたいな目立つ美人がなぜ地味な秘書にならなきゃいけないの。私はスターにならなきゃいけないの、なりたいのよ」

そして進路希望変更ができるぎりぎりの時に、親には黙って勝手に希望進路先を秘書学校ではなく、プロのモデル業に変えてしまいます。

両親は大ショックを受け、再び激怒しますが、なんたって可愛い一人娘。(ダリダ以外の子どもは全員息子です)結局はしぶしぶ許します。「仕方ないから影ながら応援する。でもいつでもやめて帰りなさい」

ミス・エジプトから女優へ

しばらくモデルの仕事をこなした後、1954年―21歳の時に、野心と将来の希望に燃えていたダリダはミス・エジプトコンテストに応募します。緊張せずに堂々としていた女の子はは彼女以外にいませんでした。ミス・エジプトに選ばれます。

ミス・エジプトの栄冠を手に入れたおかげで、映画の世界に入る扉が開き数本のエジプト映画に出演します。「ダリダ」という芸名はこの時に付けられました。

覚えやすくいいやすくダイナミックでグラマラスな音を持つ、ということで本人も「ダリダ」の芸名を大いに気に入ります。

ちなみにエジプトの映画界というのは「中東のハリウッド」(Hollywood of East)と呼ばれているくらいスケールが大きく、エジプトで撮影された映画はアラブ全土で公開される大きなマーケットなのです。

フランスに渡る

さてこれからもっとエジプトで女優業をしていこうという矢先に、たまたま知り合うあるフランス人の映画監督に「パリに来たら?君ならいけるよ」と言われます。

普通なら躊躇するところです。エジプトで着実に女優の道を歩み始めていたのだし、イタリア系といえどもエジプト出身の女性がフランスの芸能界で成功するなんて話は聞いたこともありません。

ところが、そこは天性の目立ちたがり屋。「パリに渡れば私はもっと大勢の人々に注目されるし箔がついてかっこいい」

両親はまたもや烈火のごとく怒り大反対をします。まだ若い娘が単身で外国に行き、派手なショービジネス業界に入るなんてとんでもありません。

だけどもダリダは聞く耳を持たず。すっかりフランスで大成功を収めるつもりになっています。母親が泣いて引き止めるのも無視しさっさとパリへ飛び立ってしまいます。

「目のことで同情し甘やかしてしまったから」と母親は悔みます。しかし、もともとダリダは野心的で行動的な性分だったのです。子ども時代にはこういう本来の性格がただなりを潜めていただけに過ぎないのです。

パリでの新生活は思い描いていたものとは、まったくかけ離れていました。すぐにスターになって華やかな有名人生活が待っていると思いこんでいたのですが、オーディションではことごとく落ちます。

パリの業界人から見れば、エジプト(アフリカ)から渡ってきたダリダはどこか田舎くさく野暮ったい女の子。しかもフランス語はまだ完全に流暢とはいえず、さらにアラビア語の癖が出てしまい、フランス語を話しても「R」の発音が強すぎるのです。

カイロの人々はみんな「R」を強調するフランス語を話していましたが、フランス語の本場ではそれは許されません。「訛っている」と馬鹿にされます。

フランスの映画界が衰退している時期というのも、タイミングが良くありませんでした。

その上パリは完全な階級社会で、コネも後ろ盾もないダリダは誰にもまともに相手をしてもらえません。

また冬のパリはカイロと違い非常に寒いです。またカイロでは見知らぬおじさんもおばさんもみんな気軽に声をかけてくれ人情があります。ところがこの街ではみんなが冷たい。友達もいっこうにできません。

貯金もほとんどなく、とても孤独で辛い日々を送ります。

歌手への歩み

「何とかしなければ」自分のわずかな残金を眺めてダリダは思案にふけます。このまま尻尾をまいてカイロにっ帰るのは癪ですし、自尊心も許しません。

「女優が難しいのなら歌手はどうだろう。私は歌がうまいと父も言っていたし、そもそも私は美人なのだからうまくいくに決まっている」

やると決めたら徹底しなければ気が済みません。だからモデル時代も、頂点の称号が欲しくてミス・エジプトに応募したのです。そこでパリで一番厳しいレッスンで知られる、「独裁者」のあだ名を持つ歌の先生の扉を叩きます。

実際に「独裁者」先生のレッスンは大変なスパルタでした。怒鳴られる、わめかれる、罵られる、貶される、できるまで何度も繰り返すー。

ダリダは耐えて頑張って通い続けました。他にやる事も無かった上、なけなしのお金をこの歌のレッスンにつぎ込んでいたので、途中でやめるわけにもいきません。また「絶対にあたしはスターになれるんだ」という確信があったので必死に猛特訓をしました。

2,3か月たつころ、「独裁者」先生はダリダをある歌のオーディションに送りだしました。もともと先生はダリダにずば抜けた才能と天性のオーラに気が付いていたのです。唯一の心配が、「R」の音の訛りだけでした。

ところが女優のオーディションでは嫌われたこの訛りが、歌のオーディションではチャーミングな個性として好意的にとらえられました。むしろもしかして「R」の訛りがなければ、平凡な歌い方だと見られて落ちたかもしれません。

歌手としての成功

その後有名なナイトクラブのステージの仕事を経て評判が評判を呼び、本格的シャンソン歌手デビューを果たします。

二番目のシングルソング「バンビーノ」が大ヒットすると、ダリダの顔はフランスで発行された数千もの雑誌の表紙を飾ります。渡米した二年後のことです。1957年にはゴールドディスク大賞に輝きました。

その後も順調にヒット曲を発表し続け人気はフランス国外にも広がっていきます。1959年には、自分のルーツであるイタリア公演も果たします。

アメリカでの失敗

ヨーロッパの多くの国で人気を博した後、次に挑戦する国はやはりアメリカ。一旗揚げようと意気揚々と渡米をするものの、大失敗の結果に終わります。

意味が分からないフランス語でシャンソンを歌われ、強い訛りをもつ英語で古い英語の歌を披露されてもアメリカ人には何もぴんときませんでした。アメリカのこの時代のテイストとダリダの個性もマッチしていませんでした。

最悪の批評を書かれ叩きまくられます。ここまで自分の悪口を言われたことはなかっただけに、ダリダは非常に落ち込みます。

凱旋

そんな時にエジプトでの凱旋コンサートの話が舞い込みます。

エジプト…その響きにダリダは懐かしさが胸の中で溢れてきます。だけども観客は集まるのか…またアメリカの二の舞にならないか…不安も押し寄せます。

エジプトの大衆が、フランス語で歌うシャンソンを聴いてくれるなんてないんじゃないかと首を傾げたのです。

ドキドキしながらエジプトの大地に足を踏んだダリダを待っていたのは、人々の熱烈な大歓迎でした。ダリダ・フィーバーが巻き起こっていました。

エジプトで生まれ育ち、ミス・エジプトにもなった女性がフランスで大成功をおさめている…。国民は歓喜に沸いていました。両親もインターナショナルなスターとなった娘を暖かく迎えてくれ、長年のわだかまりが溶けました。

結婚と離婚

エジプトで自信とパワーを取り戻しパリに舞い戻った後、ダリダは「キャリアも順調だし、あとは結婚」とある男性と入籍することを決意します。その男性は彼女の仕事をずっと支えてきたビジネスパートナーのような存在でした。

ずっと好き合っていたのですが、男性に奥さんがいたために二人の関係を公にすることもできず、ダリダはずっともどかしく思い悩んでいました。

カトリック系の学校に行き、真面目な両親からは道徳を守るよう教えられて育っています。しかも常に自分が一番の存在でなければ気がすまない性格です。

こういう女性には既婚者とのお付き合いは耐えがたいものです。そこでついに自分から男性に別れを切りだすのですが、慌てた男性がようやく妻と別れてダリダに求婚をしてきたのです。

1961年、ダリダは28歳。ダリダの家族全員がエジプトから飛んできて式に出てくれました。

何年も不倫を続けた、やっと男が妻を捨て自分と結婚してくれた…。デビュー当時から自分の仕事のサポートをしてくれていた…。

しかし、いざ一緒に住むようになってから朝から夜までずっと仕事の話をされるのにダリダは辟易してしまいます。「なんだか夢描いていた結婚とは違う」と。
 
付き合いが永すぎた、いざ手に入れたら達成感が大きくそこでぷっつんと糸が切れたせいなのかもしれません。ダリダはなんと結婚したわずか2,3週間後に別の男性を好きになってしまい、すぐさま夫に「離婚してほしい」と切り出します。

新たに好きになったはずの男性とも結局別れるのですが、離婚したいとなったら何が何でも離婚したい。いつだって強く思ったことを成し遂げてきた女性です。よって半ば強引に夫と離婚を果たします。

恋と自殺

キャリアは順調でした。次々に新曲を出しそれらはすべて大ヒット。ダリダ人気はアジア香港、ベトナムにも広がり、大物歌手としての風格と威厳をますます身に付けていきます。

その後自分より6歳年下のイタリア人新人歌手の男性に出逢います。

「チャオ・アモーレ・チャオ」という歌をデュエットするのですが、まさに「アモーレ(恋)よチャオ(こんにちは)」。二人はたちまち恋に落ち、世間を賑わせます。

スーパースターだったダリダと違い、男の方はまだ若い無名歌手。マスコミはこぞって彼をこきおろします。「売名行為」「お金目当て」「ヒモ」。

繊細だった彼はそれに耐えきれなくなり、お酒も入っていたこともあって自殺を図ります。
28歳の若さでした。ホテルの一室に横たわる彼の遺体の第一発見者はダリダでした。婚約発表を行った数日後のことです。

「自分との関係がそんなにプレッシャーだったのか。どうしてあたしはもっと早くに気付いてあげられなかったのだろう。あたしが彼を殺してしまったようなもの」

ひと月後にダリダは自分も死のうとします。ぎりぎりで発見され、すぐに病院にかつぎこまれ5日間昏睡状態に陥ります。

退院した後、精神状態がまだおぼつかなかった彼女はイタリア人の18歳の青年と深い関係を持ち赤ちゃんを身籠ります。しかし真剣な恋愛関係でもなく、婚約者の自殺から立ち直れてもいなかったので中絶手術を受けます。

この手術の後遺症でダリダは不妊症になり、ますます身も心も傷つきます。

立ち直る寸前の不幸、しかし仕事は順調

「もう歌いたくない」

人生そのものに疲れ苦しんだダリダはフロイドを含む心理学の本、哲学書を読みあさり、ヨガや瞑想も始めます。運命を変えようと、生き方を変えようと、自分を変えようと必死にあえぎます。

そんな時に救いを求めて会いに行ったインド人のグルは彼女の歌のテープを聴いた後に「歌いなさい、歌い続けなさい、それがあなたの宿命だ」と言い放ちます。

何が起きても自分は歌い続けなければならない、自分はスターでいなければならないーダリダは立ち直ろうとします。

1970年に新たなショッキングな出来事が起きます。

元夫が突然銃自殺をしたのです。遺書も残されていなかったようで、動機は不明です。彼とは音楽の仕事のことでは繋がっており、離婚後は良きビジネスパートナーとして信頼関係を続けていました。またもや大事な人を失ったのです。

不思議なことにプライベートで悲しいことが起きる度に仕事は必ずうまくいきます。

1972年にアラン・ドロンと「パローレ・パローレ」をデュエットし、この歌はフランスのオリコンチャートでナンバーワンに輝きます。

日本でも

そして日本ですでに大スターだったアラン・ドロンとデュエットした女性歌手ということで、彼女は日本でも有名になっていきます。

1973年に発表した「18才の彼」を、その二年後に岩下志麻が日本語でカバーをし、その翌年の1974年にはダリダは日本公演を果たします。

この時、喉の調子が悪く歌えなくなり公演をいきなりキャンセルするというハプニングがありましたが、ダリダが日本語で聴衆に挨拶したことは非常に日本の人々に喜ばれました。

世界中で

ずば抜けた語学の才能を持っていたのであろうダリダは、基本的会話ができるだけのスペイン語とドイツ語をも習得しています。

日本の次はカナダ、ドイツ、スイス、オーストリア、オランダ、ギリシャ、ヨルダン、イスラエルー各国で大成功。フランス語圏のレバノンをはじめ、エジプト以外のアラブ諸国でもダリダ人気は熱烈でした。

アラブ人のファンへの感謝の思いも込めて、1978年には最初で最後となる全曲アラビア語で歌ったアルバムを発表します。

エジプトとイスラエルが和平条約を結び、イスラエルに占領されていたシナイ半島をエジプトに返還してもらった年でもあります。

このアルバムのなかに「私の美しい故郷(祖国)」の歌が収められました。

アルバムはアラビア語圏の世界でミリオンセラーになりますが、「私の美しい故郷(祖国)」の歌は、祖国を失ったパレスチナ人たちの心を揺さぶり、シナイ半島を取り戻したエジプト人たちの涙腺を緩め、戦争中だったレバノン国民を号泣させました。

同年にダリダはエジプトのサダト大統領の前でも歌い、その後U.A.E.アラブ首長国連邦でもライブツアーを行います。

アメリカのコンサート再チャレンジを試みます。ニューヨークのカーネギーホールです。

前回はアメリカ人の好みなど考えないで、フランステイストをそのまま持っていき失敗しました。今回はちょうどディスコの時代であるということもあり、都会的でファッショナブルなかっこいい衣装と音楽を持ちこみました。

これはアメリカ人に受け入れられ、今回はアメリカのマスコミもダリダを誉めたたえる記事を書きまくります。

私生活では相変わらず不幸

フランスでの人気と地位も不動なままで、オリコン1位をいまだに確保。
私生活は相変わらず不幸で1975年、ダリダと親しい友人であったイスラエル人歌手がホテルの窓から飛び降り自殺し他界。

それでも彼女は取り憑かれたように仕事を続けます。

1980年代に入り、ダリダはブロードウェイのショータイプのステージを繰り広げて行きます。バックダンサーたちを引き連れて踊りながら歌うミュージカル仕立てです。

時代の変化と共に進化していく彼女のパワーに聴衆はますます魅力されていきます。

しかし私生活ではまた騒動が起きます。ミッテラン大統領の愛人になり、今回は相手が大物過ぎたため世間は黙っていませんでした。

大きなスキャンダルになり、ダリダのイメージが悪くなります。結局彼女の方から身を引き大統領との不倫は幕を閉じます。
 
1983年には新恋人になった男性がガス自殺。自分の愛した男性が次々に自殺・・・。

正気を失うくらい打ちひしがれたものの、それでも翌年の1984年にコンサートツアーを決行し、サウジアラビアにも飛びます。この当時のサウジアラビアで異教徒の外国人女性シンガーが舞台に立つというのは異例中の異例のことでした。

1986年には世界的にその名を知られているエジプト人の超大物映画監督ユーセフ・シャヒーンのエジプト映画に出演。彼女の演技力は高く評価されます。

恋愛は次々に繰り返していますが、どれもこれも何故かうまくいきません。

ダリダが多忙すぎた、常にパパラッチに狙われている、長年スターの座にいるので我がままが身に染みついている、マネージャーをしている実の弟があれこれ口をはさんでくる、お金と名声があるすぎる….。

自殺、そして世界の流れ

ダリダがパリの自宅アパートで自殺を図ったのは1987年5月2日のこと。睡眠剤を過剰服用し息をひきとりました。

遺言状には「人生にもう耐えられない。私を許して」と書かれてありました。

50歳になり自慢だった容姿が衰え始め、時代も歌唱力を持つ歌手の歌をしっとりと聞くよりも、テクノポップス的なサウンドに世の中の好みが移り変わり歌姫DIVAのポジションを新しい歌手にバトンタッチしなければならない時期でした。

愛する人々とまったくうまくいかない、私生活が孤独だったということだけではなく、もしかすると、トップスターでいられなくなってきたという現実のほうが耐えられなかったのかもしれません。

ダリダの遺体を納めた棺は、嘆き悲しみ号泣するパリ市民たちにもみくちゃにされながら墓地まで運ばれていきました。

ダリダの死後、奇妙な現象が起きます。彼女の現役時代を知らない各国の新しい世代の中でカルト的ファンが増えていくのです。SNSが普及する以前のことです。

よってダリダは亡くなっているのに、未発表曲や新たにテクノ風ディスコ風にアレンジしたバージョンの曲が次々に発売されていき、非常に好調な売れ行きをみせます。

1999年にはローマでダリダの人生を描いた舞台が上演。そしてついには彼女の像がパリ市内にある広場に飾られます。

亡くなってから15年目の2002年にはフランス政府がダリダの顔をプリントした記念切手を発行します。20年目のパリ市庁舎ではダリダ展が催されました。ダリダの衣装や貴重な映像を流し、テレビでは多くのダリダの特集番組が組まれました。

2005年にはダリダ物語のテレビ映画も製作されます。

ダリダがこの世を去りもう30年近くたちますが、エジプトのテレビではいまだにダリダの映画を放送し続け、カイロのバザールに行くと彼女の歌が売られて、若い歌手たちも「私の美しい故郷(祖国)」といった彼女のアラビア語の歌をカバーし続けています。

そして日本でも今でもダリダのアルバムは売られており、アメリカでもドイツ、イタリアでも然り。

国と人種と宗教性別年齢身分ーすべてを超越して誰もを感動させる魅力がダリダの歌声には秘められています。

まとめ

カイロで生まれ育ったイタリア移民の目の病気に苦しんでいた娘。

病気を克服したことにより、自分の可能性に自信を持ち人々の注目を浴びるスターを見ました。見事に成し遂げ、そして死んでもなお新たなファンを確保し続けています。

愛する男性にはご縁がなかったかもしれませんが、ダリダは世界中の恋人を持ったのです。もしかして最後に自殺という選択をしたのは、ダリダなりの最後の自分の演出だったのか。

【参考URL】http://dalida-forever.over-blog.com/pages/Biography_in_English-1988978.html
http://dalida.com/en/biographie/son-histoire.html

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この記事に対するコメント
  1. 名無しさん より:

    ダリダは日本では有名っていうとこまでは知名度なかったと思うよ
    一部のシャンソンマニアの間ではよく知られてたって感じで、一般的にはあまり知られてなかったはず
    パローレパローレの人、って言わないと歳いった人も大部分はわかんないと思われ
    すでにその当時、フランスもフレンチポップスの時代に入っていて、シャンソンが斜陽ジャンル化して日本の一般民の関心を次第に失いつつあったことも影響してると思うけど

  2. 日本の名無しさん より:

    ダレダ?

  3. 日本の名無しさん より:

    ダリダもミルバも日本では有名でしたよ。

  4. 日本の名無しさん より:

    >男の方はまだ若い無名歌手
    イタリアではヒットも出したし無名ではなかったですよ。
    二人でデュエットするはずだった曲も彼の作詞作曲でした。
    今でも彼の歌は愛されカヴァーされています。
    http://musica.itreni.net/artisti/tenco.html

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