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ルース・モスコー・ハンドラー~バービー人形の母となった女性、女の子はなりたい自分を夢見ている~

2014/07/12
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女の子はいくつの時から「なりたい自分」を夢見るのでしょうか。

流行の最先端の服を着たファッションモデル。世界中を駆け回るキャビンアテンダント。女の子の夢は無限に広がります。

そんな女の子の夢をちゃんとわかってるママがいました。そのママは、ただのママじゃありません。女の子の憧れを玩具という形にして、ビジネスの世界で成功しました。

今や世界中の女の子たちから愛されているバービー人形を作った女性、ルース・ハンドラーは、人形遊びがただの遊びではなく、遊びながら女の子たちが将来の自分について考えていることを知っていました。

ルース・ハンドラーの幼少期

ルース・モスコー・ハンドラーは、1916年、コロラド州デンバーでポーランド移民の両親のもと、10人兄妹の末っ子に生まれました。

ルースは6か月の時に、ドラッグストアを営む長姉の家庭に引き取られます。そこで店を手伝いながら19歳になるまで育ちました。ルースは人形で遊ぶよりむしろ店の手伝いをするほうが好きな女の子でした。

エリオット・ハンドラーとの出会い

1932年、ルースは未来の夫に出会います。当時、夫となるエリオット・ハンドラーはアートスクールに通う貧しい学生でした。

その後、ルースが大学2年生のとき、バカンスでロサンジェルスを訪れ、パラマウント・スタジオで働くようになると、エリオットもすぐにカリフォルニアにやってきて、ルースと暮らし始めます。1938年、二人はデンバーで結婚式を挙げました。

挙式後、ロサンジェルスで夫妻は新婚生活をスタートさせます。エリオットは自分たちのために、当時の最先端の素材だったプラスチックでインテリア雑貨を作りました。

ルースはその雑貨を見て、「これは売れる」と思い、さっそく企業に売り込みに行き、商談を成立させました。こうやって22歳のときに、ハンドラー夫婦はビジネスの世界に入っていったのです。

1942年、ハンドラー夫婦はハロルド・マット・マットソンと手を組み、写真フレームの生産を始めます。エリオットは写真フレームを作る際に生まれる木の切れ端を使ってドールハウスの家具を作りました。

この玩具も販売したところ大ヒットとなり、ガレージから始まった事業は、200万ドル近い売上げをあげるようになります。

マテル社

1945年、ハンドラー夫妻とマットソンはマテル社を設立しました。社名はエリオットとマットソンそれぞれの名前を組み合わせて名付けられました。

翌年、1946年にマットソンが会社の株式をハンドラー夫妻に売却し、会社は夫妻が経営するようになります。夫妻はマテル社の事業を玩具のみに集中することにしました。

最初のマテル社のヒット商品は玩具のウクレレでした。

その後、1955年、マテル社は新しいテレビ番組の高額な年間スポンサー権を獲得します。当時、玩具の広告はカタログや見本市を通じて行われ、通常はクリスマスシーズンに焦点を合わせて宣伝をしていました。

夫妻はこのやり方を変えて、年中番組を通じて玩具を宣伝したのです。このマーケティング手法は現在では常識的ですが、当時は画期的なことでした。番組はヒットし、マテル社が番組と提携して作った玩具は爆発的に売れました。

高額なスポンサー料はあっという間に回収することができたのです。そして、1958年までにマテル社は1400万ドルの売り上げを挙げるようになります。

バービー人形の開発と人気

1956年、スイス旅行中に、ルースはショーウィンドウ越しに色とりどりのスキーウェアを着た人形に目が釘付けになります。

その人形は、娘が持っていた赤ちゃん人形と全く違い、ルースが考えていた、大人のような体つきで様々なファッションに身を包む人形そのものだったのです。

当時、女の子が遊ぶ人形の主流は赤ちゃん人形でした。しかしながら、娘があまり赤ちゃん人形で遊ぶのを好まず、大人の紙人形に洋服を着せて、チアリーダーや働いている女性などに扮して、ごっこ遊びを好むのに夫妻は気づきました。

今の自分ではなく、将来の自分に扮して遊んでいたのです。

そんな娘の姿からルースは閃きました。立体的な体つきのリアルな大人の女性の姿をした人形を作ろうと。人形遊びを通して、小さな女の子達が将来のなりたい自分を想像することができる、そんな人形を作ろうと思ったのでした。

ルースはこのアイデアを会社に提案しますが、営業部門や役員達からは売れるはずがないと反対されます。男性の彼らには、なかなかルースの考えは分かって貰えませんでした。

しかし、ルースは、スイスで見つけた人形をモデルに、自分が考えていたような人形を3年かけて作りだしました。

出来上がった人形は、高さ30cmで、豊かな胸と長い手足の現実離れしたスタイルで、最新流行のファッションに身を包み、いつもハイヒールをはいている。そんな人形でした。

マテル社の幹部も最終的にこの人形の販売を認め、1959年、ニューヨークで開かれた玩具の見本市で、「バービー ティーンエイジ ファッションモデル」はデビューしました。

夫妻の娘にちなんでバービーと名付けられた人形は、バイヤー達にはまったく人気がありませんでした。当時の流行っていた赤ちゃん人形とは全く違っていたからです。

けれど女の子達の反応は違っていました。バービー人形は、瞬く間にアメリカ中の女の子達の欲しいものリストのトップになりました。

発売されたその年に、人形は351000体も売れました。マテル社にとって記録的な売上でした。バービー人形はその後も売れ続け、2002年までに100億体の人形が150か国以上で売られました。

成功と影

バービー人形の成功により、マテル社は1960年に株式上場し、Fortune誌が選ぶアメリカのベスト500企業のひとつにも選ばれるようにもなります。

しかし、この好調もずっとは続きませんでした。その後様々な経営上のトラブルなどで、1975年、ハンドラー夫妻は退陣に追い込まれます。それに加え、ルースは、1970年に乳癌を宣告されました。

けれどルースはこれらの苦境をポジティブに変えていける女性でした。乳腺切除手術後、自分の経験を踏まえて、人工乳房を作る会社を設立すると、自分と同じように癌で乳房を失った女性達を励まし続けました。

2002年4月27日土曜日、ルース・ハンドラーはロサンジェルスの病院で亡くなりました。彼女の死後も、バービー人形は世界中の女の子に愛され続け、今も進化しつづけます。その進化は無限です。

医者だったり、宇宙飛行士だったり。なぜなら、女の子は何だってなることができるからです。そして、そのことがバービー人形を通じて、ルースが一番言いたかったことでした。

【参考URL】http://www.ideafinder.com/history/inventors/handler.htm
http://www.women-inventors.com/Ruth-Handler.asp
http://inventors.about.com/od/bstartinventions/a/The-History-Of-Barbie-Dolls.htm
http://www.pbs.org/wgbh/theymadeamerica/whomade/handler_hi.html
http://jwa.org/encyclopedia/article/handler-ruth-mosko
http://www.answers.com/topic/ruth-handler
http://web.mit.edu/invent/iow/handler.html
http://www.barbiemedia.com/about-barbie/history.html

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