突然ですが、せんべいは好きですか?日本独特のものと思いがちですが、台湾や中国でもごくありふれたお菓子となっています。
そのせんべいで巨額の富を築いた人物が、台湾No1富豪 蔡衍明 [サイ・エンメイ] 一体どうやって富豪にまで至ったのでしょうか?
生い立ち
彼は、1957年に台湾台北市内の貿易を営む父のもとに生まれます。家は台北の昔からの通りに位置し、恵まれた家庭でした。
幼い時から大事に育てられ、勉強嫌いでした。
「朝起きて窓から外を見ると外ではみんなが自分を待って、一緒に授業をサボろうとしていたよ。自分は小銭をたくさん持っていたからね」と昔を振り返って言います。
本を読むのが嫌いだった彼にとって、ほとんどの知識は映画か街から取り入れたものです。父親が映画館を開いてからは、一日に10本の映画を見ることもありました。小さい頃から、彼が触れる世界は周りの子供達と全く違う世界だったのです。
読書には全く興味がなく、「街で目にすること1年は3年間の読書を超える」と言っていました。
いきなり工場長に
彼が19歳の時、父親が友人から食品工場を譲り受けます。父親は忙しく時間がなかったため、彼は自ら工場長に。
しかし真面目に勉強してこなかった彼は、一般教養も管理知識も何も知りません。工場に着いたとき、何から始めればいいかもわかりませんでした。
「帳簿もわからなければ、知っている人もいない。支払いをしなければいけないことも知らなかった」
仕事経験0の彼でしたが、どうしたら儲けることができるのか必死に考えます。
当時その工場は外部メーカーの委託生産で魚の缶詰を製造していました。しかし委託生産は発注者に左右されると感じ、自社製品を製造することにします。
イカの加工品スナック。予想外のことに、商品を売りに出してもお金が入ってこないのです。1年後1億元を超える損失に。もとからあった工場の資金が底をついたのはもちろん、家族から助けを得なければならないほどでした。
もともと強気な蔡衍明ですが、この失敗は大きなショックでした。敗北者の烙印だけは絶対に避けたいー自身の自尊心を救うべく、おとなしく言行を慎むようになったのです。「一度成功したとしても、次にいつ失敗するか誰もわからないー」と。
岩塚製菓と提携
再生の機会をずっと探していました。
3年後ついにチャンスを見出します。台湾のコメは余剰状態なのです。そして日本の米菓に目を付けます。
23歳の彼は日本三大米菓メーカーの一つ岩塚製菓と提携したいと考えます。
初め岩塚製菓の当時64歳の社長楨計作は、この商談に乗り気ではありませんでした。若者に過ぎない蔡衍明がきちんと仕事を果たせるとは思わなかったのです。自社の評判に傷が付いたら大変です。
しかし彼は諦めませんでした。2年後、彼の誠実な態度が楨計作の心を動かします。
こうしてせんべい製造の技術提携を受け、`汪汪製品‘を売り出します。瞬く間に、台湾の米菓市場で大きな位置を占めるようになりました。
中国大陸へ
1992年、台湾でのせんべいの成功を受け、次なることを考えます。台湾市場は限られているからです。
彼が選んだのは中国大陸。なぜ大陸を選んだのか?
「刺激がないから。自分は英語ができない。中国本土の他にどこに行くところがあるかい?」
しかしこの時彼は多くの台湾企業家とは別の道を選びます。ほとんどが沿岸の発展した都市に進出するのに対し、彼が選んだのは内陸湖南省。なぜでしょうか?
可能投資額は限られていました。そんな中既に多くの海外企業が進出している沿岸都市では、何の恩恵も期待できません。しかし、まだまだ海外企業が少ない湖南省で初の台湾資本のメーカーとなれば、多くの政策の恩恵にあずかれると読んだのです。
さらに湖南省はコメが豊かに収穫できる土地でもありました。せんべいの原料供給に困りません。こうして中国本土でのビジネス開始。
意外な収穫
中国大陸での営業は順調ではありません。
まず、ある大都市の酒造組合を通して米菓を紹介してもらうことにします。この結果、300の注文をとることができましたが、実際のところ支払い、出荷までいかないのです。どうしたらいいのか分からなくなります。
従業員からは、あきらめて商品を台湾に戻したらどうかーと言う案さえでてきます。しかしそれには輸送費がかかりすぎ。
そうこうしているうちに、賞味期限がはどんどん近づきます。彼は決断、上海・南京・長沙・広州等の学生たちに無料で提供しよう!と。いわゆる試食品です。
これが大変素晴らしい反響。汪汪ならではの食感ときれいな包装が、学生たちに大好評だったのです。予想外に汪汪の名前が広く知られるようになりました。
これを見てとった蔡衍明はこの機会に大規模な宣伝活動を開始。`あなたも汪汪 私も汪汪 みんなも汪汪`のキャッチコピー。このフレーズと商品のキャラクターはまもなく多くの人に覚えられるようになったのです。
こうして一気に知名度を上げ、この年一年で2.5億人民元の営業利益計上。
2度の株式上場
1996年、彼は汪汪ブランドでの株式上場を決定。当時、台湾の株式市場上場は非常に複雑な手続きが求められました。
そこで彼はシンガポール市場に上場します。シンガポール市場は中国企業を積極的に後押ししていたのです。
しかし、シンガポール市場は取引要素にかけ、パッとしません。そんな中、同時期に香港市場に上場した中国の飲料メーカーが、一気に株価40倍になったことを知ります。
他からのアドバイスも受け、彼も香港市場に上場することにします。
スウェーデン、フランスといった海外の銀行から貸付を得、彼個人の名義でシンガポール市場の株式を購入。そして食品以外にも手がけていた事業を切り離し、食品・飲料メーカー汪汪として香港市場上場。
更なる拡大
その後、中国大陸での食品メーカーにととどまらず、新聞社テレビ局の買収、大陸初台湾出資の病院建設、台湾・中国本土でチェーン展開するホテル業と、事業を拡大していきます。
2010年、53歳の彼はアメリカ・フォーブス社の富豪リストに名を連ねるようになり、2013年には台湾No1の富豪となりました。
勉強が嫌いで、本を読むのは苦手。経営者の中では異色の蔡衍明。自身の失敗を糧に謙虚になったことで、恵まれた背景を無駄にすることなく、かえって大きく飛躍することができました。
台湾・香港・中国にせいべいを広めたのは、彼の功績といっても過言ではないでしょう。アジアへ旅行する折には、ぜひ日本のせんべいと食べ比べてみてはいかがでしょうか。
【参考URL】http://baike.baidu.com/view/776642.htm
http://news.56ye.net/show-3864.html
http://www.rz520.com/baidu/mingyan/lizhigushi/19599.html
この人って台湾の漁船に金だして、尖閣に派遣してた人か?
海保と台湾当局の船が放水合戦してたときのスポンサーって言われてた人でしょ?
>新聞社テレビ局の買収、大陸初台湾出資の病院建設、台湾・中国本土でチェーン展開するホテル業と、事業を拡大していきます
商売のためには仕方ないのかもしれないが、汪汪(ワンワン)グループは親中国の立場です
台湾の自主独立を認めない中国の主張に賛成していて、台湾のマスコミで中国寄りの報道をしています
自転車メーカーのジャイアントの社長のが金持ちと思ってた…
恩知らずの反日野郎だ
中華系、朝鮮系の人間は恥知らずで恩をあだで返す