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アメリカ初の成功を収めたアフリカ系女性起業家 マダム C.J.ウォーカー

2014/07/20
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かつて、アメリカにおいて黒人女性は、貧しい奴隷の子孫であるという人種差別と女性は男性より劣るとされる男女差別の二重の差別を受ける存在でした。

ところが20世紀の初頭に差別をはねのけ、アフリカ系女性で初めて億万長者になったたたき上げの人物がいます。

南部の綿畑で育った少女は、家族を養うために洗濯女になり、コックになり、それからヘアケア製品の製造業者マダムC.J.ウォーカーとして成功を収め、慈善活動家としても名をはせました。

苦難の前半生

苦難のスタートを切ったといってよいでしょう。

両親と兄は綿畑農園の奴隷でした。エイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言が行われた5年後に、一家の6人兄弟の5番目として後のマダムC.J.ウォーカーとなるサラ・ブリードラブは生まれました。

6歳になる前に両親ともに亡くなり、姉と義理の兄にのもとで綿花を摘む仕事をしながら大きくなりますが、仕事は厳しく、義理の兄からの虐待も受け続けていました。

この境遇から逃れて自分の家庭を持とうと、14歳でモーゼ・マックウィリアムズと結婚します。3年後に娘のレリアが生まれたものの、その2年後、19歳のときに夫が亡くなり、理髪店を営んでいた4人の兄弟がいるセントルイスに引っ越しました。

そこで洗濯女として懸命に働きますが、稼ぎは1日わずか1ドル稼げるかどうかにすぎませんでした。それでもセント・ポールA.M.E教会、黒人女性連盟の女性たちの友情に支えられ、粘り強く逆境をはねのけようと努力を重ねます。

娘を公立の学校にいれ、自分自身も夜間学校にはいって学びはじめたのでした。

髪のトラブルから起業へ

1890年になって新たなトラブルに襲われます。頭皮のトラブルのために髪のほとんどが抜けてしまったのです。貧しい生活で栄養が足らなかった上に、水道も電気もない生活を送っていた当時の衛生状態の悪さが原因でした。

なんとかトラブルから抜けだそうと悪戦苦闘することになります。

理髪店の兄たちから髪の手入れの知識を学び、ヘアケア製品で起業をした黒人女性のアニー・タンボ・マローンの製品や、自家製のヘアケアローションをあれこれと試します。

そのうちに症状は緩和したばかりか、美しい髪と褒められるまでになりました。1905年、マローンのセールスエージェントになり、コロラド州デンバーに引っ越します。

自家製ヘアケア製品の開発、改良は続いていました。デンバーで結婚した新聞広告セールスマンのチャールズ・ジョセフ・ウォーカーと共に、ついに自分が開発したヘアケア製品の発売に乗り出したのが1907年です。

消費者に強い印象をあたえることができるように、「マダムC.J.ウォーカー」と名乗ります。

主要製品は、「マダム・ウォーカーのすばらしい育毛剤」と名付けられたスカルプケア製品でした。

夫と共に合衆国南部と東部をまわり、家庭や教会で、自分が開発したポマード、ブラッシング、櫛を暖めて使う方法などのデモンストレーションを行い、大きな評判を呼びます。

ウォーカーは、自分の髪が抜けたときのエピソードを製品の紹介に利用しました。

「どんな製品を使っても、髪の毛が抜けるのは止めることはできませんでした。自分の姿が恥ずかしくなって、神に助けを求め、祈りをささげました。

すると、ある夜の夢に、大きなアフリカ系男性があらわれ、髪の悩みを解消するローションの作り方を教えたのです。教わった通りローションを作り、頭に塗ってみると、抜け始めるよりも早く、髪が生えるようになりました」

ウォーカーが広めたシャンプーが果たした役割は大きなものでした。

衛生状態がよくなかったこの時代に、ウォーカーの言葉通り、シャンプーの回数を増やし、頭皮を清潔にしたことにワセリンを塗って傷口を回復して髪のトラブルを解消したという人は続出しました。

また、ウォーカー自身が美しい髪の持ち主で、歩く広告塔といってよい存在でした。

事業は急成長をとげていきました。

1910年にはインディアナポリスに移転し、アメリカ大陸で最大の製造センターを開きます。雇用者数が3,000人に達するほどの成長を遂げました。アメリカだけでなく、キューバ、ジャマイカ、ハイチ、パナマ、コスタリカにも市場を拡大していきます。

女性への支援

センターには工場のみならず、ヘアとマニキュアのサロン、美容師学校が含まれていました。

自分の会社は女性たちが経済的な力を得る手段を提供できることにウォーカーは気づいていました。白人女性も職業につくのはむずかしかったとはいえ、教養があれば教師や看護婦になることはできました。

でもその道も教育のない黒人女性には閉ざされていました。洗濯女かコックぐらいしか選択肢がない状況で、ウォーカーは女性を教育して美容師に育てあげ、自立を助けようとしたのでした。

美容師学校で学んだ女性は社のエージェントとなって、ウォーカーの製品を熱心に販売し、美容に関する考えを広めていきます。

1917年にはフィラデルフィアで200人のエージェントが集まり、まだ珍しかった全米女性会議を開きました。元メイド、コック、小作人という女性が、前よりも収入を増やしたという話を聞き、ウォーカーは達成感をかみしめました。

会議では数多くの製品を販売した女性だけではなく、地域社会に寄贈を行った女性も表彰されています。

慈善家、市民活動家としても活躍

幼い娘を抱えて貧しい暮らしをしていた時代から、ウォーカーは教会の慈善活動に熱意を示していました。目の不自由な家族のために、なけなしの金をはたいて寄贈したこともあれば、寄付金集めに奔走したこともあります。

起業家として成功した後、市民活動、文化活動、政治活動にかかわるようになったのは不思議ではありませんでした。

黒人のためのYMCA創設の計画があると知ったウォーカーは、1911年、1,000ドルの寄付を行い、全国の黒人の話題をさらいます。

黒人の経済的自立と地位向上を目指す全国黒人実業連盟(NNBL)のリーダーであるブッカー T.ワシントンと親交を深め、ワシントンがアフリカ系アメリカ人の向上をめざして創設した学校にも寄付を行いました。

ニューヨークに住むようになったウォーカーは政治問題への関与を深めていきます。

1917年、36人の黒人の男性、女性、子供が死亡したセントルイスの暴動に抗議して、7月にサイレント・プロテスト・パレードが行われます。8,000人のアフリカ系アメリカ人が5番街まで行進したこのパレードの実行委員会に加わっています。

数日後は、ハーレムのリーダーと共にホワイトハウスを訪れ、ウィルソン大統領に、黒人に対するリンチを連邦犯罪とする法の成立を求めました。

同時にリンチ防止を求める団体に、ウォーカーは当時では破格の5,000ドル(今日の経済価値に換算すると、約650万円)を寄贈しました。

また、遺言を書き直して、自分の資産の3分の2を教育、子供、高齢者の支援にあてること、10万ドルを個人、教育機関、孤児院に寄贈すると定めています。

成功の秘訣

ウォーカーは1919年に亡くなりますが、起業家としての成功と慈善家精神は、テレビ司会者で慈善家のオプラ・ウィンフリー、米国中小企業庁副長官のマリー・ジョーンズなど、今なお多くの人びとのインスピレーションの源になっています。

最後に成功の秘訣を語ったウォーカーの言葉を紹介しましょう。

「成功に王道などありません。もしあれば成功などできなかったでしょう。私が成功できたのは、勤勉に働き、徹夜もいとわなかったからです。

始めるのだと自分に言い聞かせてスタートを切ることができました。だから座って機会が来るのを待っていてはだめです。立ち上がって自分で機会を産み出さなければ!」

【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Madam_C._J._Walker
http://iipdigital.usembassy.gov/st/english/publication/2010/03/20100301151516amgnow0.9658778.html#axzz34Jkuxxpy
http://inventors.about.com/od/wstartinventors/a/MadameWalker.htm
http://www.biography.com/people/madam-cj-walker-9522174#awesm=~oGRqRBPmG8KiiH
http://www.madamewalker.net/
http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1223.html
http://www.biography.com/people/madam-cj-walker-9522174/videos/

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