1999年、工場なし・牧場なし・市場なしで起業。14年後の2013年、国際基準の工場・国際モデルの牧場・牛乳の販売額中国一になった「蒙牛集団」。
急成長を成し遂げた牛 根生 とは一体どんな人物でしょうか?
元は別会社「伊利グループ」の副社長
酪農家の下で育った彼は、1978年、中国内モンゴル省、フフホト市のとある牧場で働き始めます。1983年、乳業の工場に就職。伊利集団[伊利グループ]です。
いちからはじめ、1992年には、伊利グループの副社長となり、グループの営業利益の80%は彼の管理する事業部から生み出されたほどでした。
副社長を追われて
彼の人柄と物事の巧みな扱い方ゆえ、高い信望を得ていました。
ところが、1998年、突然何かが違うと感じます。既に16年間勤務してきているのに、最近になって、小さな物品の購入さえ、スムーズにできなくなったのです。極端な例では、ほうき一つ購入するにも、多くの部門の許可が必要なのです。
問題を明らかにしようと、社長のもとへ行った彼は、初めて不信感とよそよそしさを感じとります。その時彼は悟ったのです、自分の居場所がない、非常に危険な状況だ、と。
彼は自分から辞表を出します。一回、二回。その度留まるようにと言われ、辞職を諦めます。しかし状況は変わらないばかりか、ますます悪化するばかり。
株主会の席上、3度目の辞表を提出し、こう言います。
「社長、もしあなたが私を辞めさせたいと思うのであれば、今ここで、正式に辞職します。少なくとも、自分が会社の発展に影響しないように。」
社長は言いました。「そういう意味ではない。」
「であれば、辞職願を取り下げます。」と、手を伸ばしたところ、社長は直ぐに彼の腕をつかみ、「ひとまず後にしよう。よく話し合って、その後決定しよう。」と。
彼がその場を離れると、普段取り乱すことのない社長は涙を流し「我が社には、彼がいて自分がいないか、自分がいて彼がいるかだ!」と言い放ったのです。
何年もの後、当時を振り返って彼は言います。「あの時は本当に辛かった。一生の中で非常に辛かった三つのことのうちの一つ。死にたいと思った程だった。」
16年もの間社長を支えてきた彼が、なぜそんな仕打ちを受けなければならかったのか?その後たったの6年間で驚異的な成長を遂げられたのはなぜなのか?彼は慎重に口を閉ざしていました。
どん底からの立ち直り
追い立てられるようにして、伊利グループを離れた彼は北京大学に入ります。古い自転車をこぎ、あちこちの教室を渡り歩きます。
40歳を過ぎた中年男性が、今が盛りの活気ある若者達に混ざって講義を聞くのは、なんともやりきれない気持ちでした。まず、心の内の無念さと痛みを克服しなければ、落ち着いて学ぶことも、なれないキャンパスの雰囲気に馴染むこともできない・・・と。
こうして自分を戒め、この期間に16年間の伊利グループでの経験教訓を振り返り、理性的に消化していったのです。
彼が北京大学を終了する頃、折り良く、以前の部下の数名が伊利グループを辞め、彼のもとにやってきます。伊利グループの人事部と財務部を除き、すべての部門のトップたちでした。
こうして彼らは、蒙牛乳业有限责任公司[蒙牛乳業有限責任会社]を創業します。資本金100万元。すべては彼と彼の妻が伊利グループの株を売って手にしたものです。
蒙牛グループが立ち上がると、以前伊利グループで働いていた多くの仲間が、一人、また一人と彼のもとにやってきました。結果その数は数百人にまでなったのです。
彼は彼らに言います。「明かりを闇に投げてはダメだ。」と。彼自身、蒙牛に希望を託せると保証できたわけではありませんが、それでも、多くの以前の部下が彼のもとに加わっていったのです。
フフホト市の53平方メートルの部屋に、彼は自宅から持ってきたソファー・机・ベッドを置き、こうして事務所開設です。彼は重々承知していました。自分の弱みは、市場も工場も農場もないことだと。同時に自分の強みは豊富な人材だと。
彼について伊利グループを離れてきた仲間には、かつての牛乳、アイス、営業戦略に関わる秀でたメンバーがおり、生産・経営・営業・市場・原料設備に関しては業界トップの人材なのです。人材で資源を補おうと。
1992年2月、遠く離れたハルビンのとある乳業会社と契約を結び、自分の元から8人のメンバーを遣わします。こうして、遠隔操作でありながら、新しい新鮮な「蒙牛製品」が市場に出されることになったのです。
かつての伊利グループを追い抜くために
市場の圧倒的大多数を伊利グループが占めている中にあって、蒙牛が生き残っていくためには知名度を上げなければなりません。しかし、ありきたりの営業では無理です。
彼は考えました。「内モンゴルで二番目のブランド」というコンセプトです。
当時、内モンゴルにおいて、乳製品といえば伊利でした。蒙牛の名は、見聞きすることがないばかりか、上位5社に入るのも、難しい状況でした。そこで、「伊利を手本にした蒙牛」という設定で伊利を通して蒙牛を知ってもらおう、しかも伊利のように大手であると。
1994年4月1日フフホト市の住民は街中の主要通りに300もの看板を目にします。すべては蒙牛の広告「伊利グループから学ぼう!地元の工業発展のために!内モンゴル第二のブランドを目指して!」
静かな湖面に投じたひとつの石が無数の漣を生じさせるように、一気に300の広告を投じ、市場に波を生じさせたのです。当然ながらフフホトの市内では、「蒙牛」があちこちで話題に上るようになりました。人々は「蒙牛」を覚え、「蒙牛は内モンゴルの第二のブランド」と意識したのです。
5月1日、まだ人々が「蒙牛」を話題にして冷めやらぬ頃、48の広告看板がひどく破損されます。彼はすぐに気づきます、伊利グループのだれかの仕業だと。
賢い人は善を持って悪に対応します。彼はこの危機をチャンスに変えたのです。看板が破損されたことがニュースになり、人々はさらに「蒙牛」を知ることになったのです。
看板は破損されることがあっても、商品のパッケージに印刷されたものは消せません。そこで彼は、「蒙牛」のアイスのパッケージに、「地元工業の発展のために、伊利グループから学ぼう!」と印刷したのです。
表面的には、伊利を宣伝しているようにも取れますが、実際は、大企業「伊利」の名のもとに、自社をアピールしていたのです。
2002年には「名を馳せたブランド」に与えれられる「中国驰名商标」の称号を取得。これは国際基準に準ずるもので、取得までに最低3年間かかりますが、「蒙牛」は最短期間でこの商標を取得します。
さらに2003年、中国初の有人宇宙飛行の成功。この時スポンサーであった「蒙牛」にとって、またとない宣伝の機会になりました。「宇宙飛行士が飲む牛乳」のコマーシャルが、全国様々なテレビ局で放送され、全国30以上の大都市に広告が張り巡らされたのです。
こうして急激な成長を遂げます。2004年には間違いなく、中国乳業界の手本となっていました。
その年、香港株式市場に上場。海外の投資家の注目も集め、低迷が続いていた香港株式市場を活気づけるものとなります。こうして一夜にして、彼は億万長者の仲間入りを果たしたのです。
かつてはひとりの搾乳家。工場も牧場も市場もない状態で起業し、今や「中国100の成長企業」のトップ。
中国一の国際モデルの牧場を有し、初めて、搾乳のオートメーション化を成し遂げました。「蒙牛」の牛乳、乳製品の消費量は中国一。同時に「消費者満足度」も乳業界で一番です。
牛根生
中国人の姓で、`牛‘ という苗字は さして珍しいものではありません。しかし彼の場合、漢字を見てわかるとおり、乳業だから牛?ニックネーム?と思ってしまいます。
それもそのはず、1958年、内モンゴル・チチハル生まれの彼は生みの親を知りません。家庭が貧しかったため、1歳になる前に50元で養子に出されてしまったのです。
その養父が酪農家。まだ子供のいなかった養父は、養子として迎えた彼に、根を張って前進してほしいと希望を託し、「牛 根生」と名づけたのです。そして確かに彼の生涯は、牛と切っても切れない関係になりました。
急速な成長を遂げた「蒙牛グループ」。「蒙牛速度」という言葉が生まれたほどです。
2011年、彼は取締役会長の立場を退き、慈善家として活動を開始します。そして、持ち株のかなりの額を自身の発足させた「老牛基金」に投じ、現在は企業家としてではなく、慈善活動家としての活動を繰り広げているのです。
【参考URL】http://www.cnlzweb.com/lz_25/611115.html
http://baike.baidu.com/view/52444.htm?fr=aladdin
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