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兪  敏洪 ‘中国一裕福な教師’

2015/01/22
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中国で全国展開する`新東方‘英語・留学スクール。今や、アメリカ・カナダの中国人留学生の70%が、新東方を通してやってきた、と言われているほどです。

その創業者はいったいどんな人物なのでしょうか?ビジネスとは無縁だった一英語教師の俞敏洪でした。 

生い立ち

18歳まで 中国江蘇省のとある田舎町で育った彼は、外の世界を知りませんでした。

農村の生活はとても平和な平凡な毎日です。頭上には毎日同じ空が見え、毎日同じ道を歩く。毎日顔を合わせるのはよく知れた村人たち。彼ももしかしたらここで結婚し、家庭を持ち,土地を耕しながら年を重ねるだけだったかもしれません。

そんな彼が北京に向かうことになります。彼を動かしたのはなんだったのでしょうか?

彼が育った町には長江が流れています。そして彼の家の近くには50メートルほどの小山があり、少年時代に彼はよくそこに登りました。そこからは長江の流れが一望できるのです。

何艘もの船が渡ってきては、見えなくなっていく。

どこから来るのだろう?どこへ行くのだろう?あの先には何があるのだろう?もしあの船に乗って行ったら、どこまで行けるのだろう?

感謝できることに、彼の親戚のうち何人かは上海におり、彼が8歳の時に母親は彼を連れて親戚を訪ね、上海旅行に連れて行ってくれました。

船旅です。雄大で広々とした長江の流れ、上海の灯り、きらびやかな街。それらはどれも彼にとって忘れられない、強烈な印象を残しました。

大きくなったら絶対に村から出るぞ!と。

農村から首都北京の名門校へ

北京大学(日本でいうところの東京大学)に合格するのは並大抵のことではありません。農村の学校で、英語を目指そうとしたのには、当時のある先生の影響が大きかったのです。

その人は南京の通訳機関からやってきた人で、先生をすることになった人です。もちろん英語に秀でています。先生は農村の、列車さえ見たことのない学生たちにこう言ったのです。

もしかすると君たちは誰も大学に上がれないかもしれない。でもやはり大学に行けるよう、努力するんだ、奮闘するんだ。

一旦大学に入れば 君たちの生活は間違いなく大きく変化する。たとえ合格できなくても、数年後、畑仕事に疲れて空を見上げた時に、`あの時自分は大学に行こうと努力したんだ‘ と思い返すことができる・・・。

そんな先生の力強い励ましがあり、彼と同じクラスのみんなは大学受験を決意し、努力を始めたのです。

一年目の彼の大学受験、英語の成績は100点満点中33点。ほかの科目も理想とは程遠い点数。しかし彼も家族もさほどがっかりすることもなく、だめだったら地元で農作業を手伝えばいいと、畑仕事を手伝い始めます。

その後講師のアルバイトを見つけ時間を見つけては、受験勉強を続けます。

こうして迎えた2回目の大学受験。けれどまたしても英語の成績が振るわず、合格できなかったのです。

2度失敗し、3度目を挑戦する意欲はなくなっていました。彼の母親は言いました。

合格できなかったって 何も気にすることはないよ。前に比べて暮らし向きも良くなってきたし、これからお金を貯めて家を建てて、お嫁さんを迎えればそれでいいじゃない。

と。こうして彼は実家に戻り再び畑仕事を手伝い始めます。そんなある日、高校時代の先生が彼に、県が計画した、外国語を目指す大学受験生のための専門のクラスがあるーという情報を教えてくれます。

それが確かであることを確認した彼の母親は、彼をいかせることにします。こうして彼は20数名の男子学生と共に、住み込みで受験に備えます。

副クラス長に選ばれた彼は以前にもまして真剣に勉強に打ち込みました。朝早く起きては皆で一緒に英単語を暗記し、夜は10時半の消灯後も、懐中電灯の明かりを頼りに暗記を続けます。

1980年、彼にとって3度目の大学受験。この一年必死に勉強したかいあって、見事北京大学に合格します。

生まれて初めての列車に乗り、子供の頃に憧れた外の世界に足を踏み出します。

振り返って彼は言います、なぜ3年間諦めずに大学を目指し続けられたのか? 当時は自分でもよくわからなかったが、おそらくそれは、遠くへ行きたい、村で一生を終えるのは嫌だ、そのためには大学に行くしかない。そんな思いではないか、と。

当時は今のように、県外へ働きに行くという選択肢はなく、地元を出る唯一の方法は、大学進学だったのです

入学してからの苦労

長年の夢が叶い、しかも首都北京の名門大学に入学!

しかし現実は彼にとって厳しいものでした。クラスの中で農村出身者は彼一人。初めは方言しか話すことができず、標準語を話す同級生の中で浮いた存在になってしまいます。

得意だった英語でさえ、‘彼の英語は聞き取れない‘と言われ成績もガタ落ち。みんなが彼女を見つけていく中で、誰ひとり見向きもしてくれません。孤独、劣等感。さらに大学3年の時には肺結核になり、やむなく一年間休学します。

そんな大学時代 彼は必死にさらに多くの英単語を暗記し、大学在学中の5年間に800冊以上の本を読んだのです。

そんな努力のかいあって、卒業後北京大学にとどまり、英語教師として働くことができるようになります。そして学生に紛れ大学の図書館に通いつづけ知り合ったドイツ語専攻の彼女と結婚します。

屈辱そして起業

大学での安定した仕事ではあるものの、同級生の多くが留学のため海外に行くのを見聞きし、彼も心穏やかではいられなくなります。妻も圧力をかけてきます。

「私たちも留学しましょう!」

こうして彼らは留学のための勉強と、資金稼ぎを始めます。大学の仕事とは別に、予備校での講師の仕事をはじめたのです。

留学の夢を叶えるため、妻とともに約3年半奮闘し、あと少しというある晩のこと、大学の校内放送が大きく鳴り響きます。彼に処分を通知する放送です。3日間校内放送で彼の名前と処分が放送され、一ヶ月半にわたって、大学内の主要な掲示板に張り出されたのです。

北京大学の教師としての名を使って校外で働いていた彼に対して、大学側はこうも厳しい処置をとったのです。

メンツを失った彼はやむなく北京大学を離れます。1991年9月のことです。こうして当初はあちこちの予備校を渡り歩き、後に自分の塾経営に本格的に乗り出すことになります。

さしてビジネスの経験があるわけでもない彼が 初期の頃に経験した苦労ー

始めの頃、彼は電柱に広告を張るという方法で生徒集めをしていました。それが少しでもお金を得たいというご近所、役人の目にとまり法外な`広告料‘を請求されます。

自分の経営する塾の両側の電柱に広告を貼っておくだけのために、7万元(当時1元=約30円)を払ったのです。

1993年11月 ‘新東方学校‘として開校。英語及び留学準備のための予備校として、評判を高めていきます。

当初、家族経営だった新東方。彼は考えます、さらに発展させるためには、家族親族に頼っていてはだめだ。理想の企業文化、精神は作り上げるには、同じ道を歩む、同じ思想、理念を持つ仲間が必要だ、と。

同志を探し求めて、1995年彼はアメリカに渡り大学時代の級友、友達を訪ねます。翌年、意気投合した仲間が新東方に加わり、彼らが後に新東方を支える人物になるのです。

夢の実現に向けて

彼には夢があります。それは、完全に独立した規模の小さい人文科学系の私立大学を創設する事-毎年1000人入学し、5年後以降彼らの口コミで学生が増えていき、10年後には学生でいっぱいになるーそのうちの60~70パーセントは経済的余裕のない農村の若者達で。

その夢に近づくために、彼は本来意図していなかったことを行うことになります。`新東方学校‘を株式上場するのです。十分な資金を得るために。

こうして2000年`新東方投資有限会社‘ として中国国内株式市場に上場。そして同じ年コンピューターのレノボと提携し、新東方の教育理念・精神をITを通して社会に普及するための新たな試みを開始します。

結果、彼が願っていた多くのことは思うように行えなくなります。株主たちの同意が必要となるからです。株主の意向と教育理念の間のズレは、この先もなくなることはないでしょう。

折りよく、中国市場の英語熱、留学ブームにのったとはいえ、2000年~2004年にかけて、`新東方‘は一番難しい時期でもあったのです。

挫折

N.Y.の9.11事件を受け、アメリカ留学希望者が激減。その後のサーズの流行ではやむなく4ヶ月間休講。その間の損失は1億元(当時1元=14円)。アメリカの教育機関から、`新東方‘は試験問題を盗んだと訴えられもします。

外的な要素は時間の経過とともに過ぎゆくもの。もっと厳しかったのが、内部事情。利益をめぐり、内部で衝突が生じたのです。

彼はもともと教師であり、ビジネスについて専門に学んだことはなく、株式についての知識も持ち合わせていませんでした。

さらに、創業当初から共に`新東方‘を築いてきた妻ほか親族と、のちに加わった元同級生たちと、利益の分配、教育方針で折り合いがつかなくなります。

結果、彼は果敢な決断に踏み切ります。直系の親族は誰も`新東方‘では働けないー。

大胆な決断

その後2006年に、ニューヨーク株式市場に上場。これを機に、国際市場に通用する企業として、新東方の経営体制を見直していきます。こう述べています。

「一つ目に、関係する全ての人が`新東方‘は非常に価値がある企業、事業だと認め奮闘すること。二つ目には、自分自身が、改革・改造の矛盾、衝突の中で、辛抱強く寛容であること。常に自分の不足を認め、学び、前進していくことが大切」だと。

こうして、中国で一番富裕な教師、20世紀の中国に大きな影響を残した25人の企業家の一人となったのです。

今や、アメリカ、カナダの名の通ったどの大学でも、中国人留学生の70パーセントは`新東方‘を通してやってきた-と言われています。

北京大学について語るとき、彼はこう言います。

「当時は北大(=北京大学の略)を憎み、恨んだ。でも今の自分があるのは北大のおかげであり、北大がなければ`新東方‘もなかった。」と。

そして後悔していることとして、`新東方‘を株式上場したことをあげます。その結果、自分が理想とする教育理念を進めることができなくなったと。

しかし自分が上場しなくても、誰かがする、あるいは上場しないまま、時代の波にのまれてしまうー `新東方‘をここまで大きくしたのがよかったのかどうかー彼が後悔し続けるのかは、さらに時間が経過してみないとわかりません。

今や成功した起業家、中国一富裕な教師である彼は、多くの講演会に呼ばれ、学生たちに力強い講義をしているのです。 

【参考URL】http://www.17coolz.com/lizhiyanjiang/15295.html
http://www.360doc.com/content/09/1128/01/105049_9907182.shtml

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