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ジム・キャリー、コメディアンと俳優、二つのジャンルでの成功

2014/11/29
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はじめに

アメリカのハリウッドといえば、世界最大の映画の舞台です。そこで、長くスターとして存在し続けることは、容易なことではありません。

今回は、そのハリウッドで全く異なるジャンル、コメディとドラマの両方の分野で栄誉を獲得しているジム・キャリーについて語らせていただきます。

一つの分野だけで成功するだけでもものすごいことなのに、どうして二つの分野で成功することができるのでしょうか?それを探っていきたいと思います。

生い立ち

4人兄弟の末っ子として、ジム・キャリーは1962年1月17日にカナダのトロント市、ニューマーケットに生まれました。彼は人を喜ばせることに小さい頃から興味を持っていました。小さい頃から自分の母親を喜ばせることに一生懸命にトライしていました。

ジムの母親は、うつ病を患っていました。彼の母親は、ひどく落ち込んだうつ状態に陥ることがしばしばありました。

たくさんの薬を飲んで、ベッドに横たわっている母親を励まそうと、カマキリのマネをしたり奇妙なことをしたり、とにかく母親が喜びそうなことなら何でもやりました。

なんて、健気な子どもなんでしょう。小さい子供にとって、母親の存在って何者にも勝るものです。大切なお母さんを喜ばせようと、一生懸命に彼は演じていたんですね。彼のこの健気な頑張りは、私達の胸を打つものがあります。

ジムが、中学3年生になった時家族の生活は一変します。彼の父親は会計士の仕事を失います。

一家は家を売却することを余儀なくされ、トロント州東部にあるスカーバロー地区へと引っ越しします。そこは、多くの人たちがタイタン・ホイール工場の管理人や警備員をして働いていました。

街の中にある学校へ通いながら、学校が終わると毎日工場で8時間働きました。家族を支えるために懸命に頑張りました。これって20世紀の話ですよね。なんだか、まるで産業革命の時代のような・・子供が、寝る間も惜しんで働くなんて、あまりにもむごいです。”苦労した”というより、”壮絶な人生”と表現した方があっています。

下積み時代

ジムは、15歳の時、学校も工場で働くこともやめトロントにあるコメディクラブで活動を始めます。何より家族を支えること、そして自分自身も自立する覚悟でのぞみました。

このクラブでの最初のパフォーマンスは「Yuk Yuk’s Sadly」というものでした。これは、思うような結果は得られませんでした。

しかし、彼は失望することなく自分の演技の腕を磨き、練り上げていきました。ついにはクラブの中で主要な役割を担うようになりました。さらなる、チャンスを求めてジムは1979年に、アメリカのロスアンゼルスへと引っ越します。

コメディ・ストア劇場で活動していたところ、ロドニー・デンジャーフィールドの目に留まり、彼の公演で前座を務める契約を交わしました。

1983年にはカナダのTV映画「Introduce・・・Janet」またの名を「Rubber Face」に登場します。

*コメディ・ストア劇場・・・アメリカ、ウエストハリウッドにある劇場
*ロドニー・デンジャーフィールド・・・・アメリカを代表する大物コメディアン(1921年11月22日~2004年10月5日)

しかし、上手くいくことばかりではありません。

次の番組「The Duck Factory」は、13話放送された後で、NBCによって放送が取り消されました。また、「ワンス・ビトゥン 恋のチューチューバンパイア」の映画も期待したような結果は出せませんでした。

*NBC・・・National Broadcasting Companyの略、アメリカ合衆国の三大ネットワークの一つです。

こうした挫折を味わいながらも、彼はまた挑戦し続けます。自暴自棄になったりしません。

次に、SFコメディ「僕の彼女は地球人」に出演します。そこで共演した、デイモン・ウェイアンズと後に親友になります。デイモン・ウェイアンズは、自分の兄キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズに「In Living Color」へのジムの出演を勧めてくれました。

おかげで、1990年から1994年にかけて同番組に出演することになります。

ブレイク

次に彼が、主演した映画で特に、話題となった作品を紹介させていただきます。

1994年、映画「マスク」が公開されました。彼はこの作品で、一躍世界的スターの座へとのし上がりました。

さえない男のスタンリー・イプキスが、ある日不思議な木の仮面を手にした時から超人的な能力を発揮して人生が一変する物語です。全世界興行収入は、なんと3億5160万ドルにものぼりました。

1998年、「ツルーマン・ショー」が公開されました。ジムはこの映画でゴールデン・グローブ賞、主演男優賞(ドラマ部門)を受賞します。また、映画の全世界興行収入も2億6410万ドルと大ヒットしました。

彼のラストのシーンの演技は、コメディアンとしておふざけをしている人とは別人です。

1999年ジムは、「マン・オン・ザ・ムーン」に出演します。この映画は実在のコメディアン、アンディ・カウフマンの伝記映画です。このカウフマンの役をジムが演じました。彼は、この映画でゴールデングローブ賞、主演男優賞(コメディ部門)を受賞します。

2000年の秋には「グリンチ」が公開されます。ジムはこの映画で、緑色の毛皮の重たい衣装を着け、特殊メイクを施して出演しました。アカデミー賞では、特殊メイク賞を受賞しました。

全米で2億6000万ドルもの興行収入を記録し、その年の全米年間興行収入ランキングで1位となりました。また、全米の歴代興行収入ランキングでは第64位にランクインされています。

2001年、「マジェスティック」が公開されます。この作品こそ、ジムの温かい人間性が存分に、発揮されている作品だと思います。

主役を演じている時のジムの目は澄んでいて、思いやりがあって、本当に彼の演技に惹かれます。”シリアスなジムの方がいいわ”と思う女性ファンも多いのではないのでしょうか。

2003年、「ブルース・オールマイティ」が公開されます。これは、神様から全知全能の力を授かった主人公”ブルース・ノーラン”をジムが演じます。ジムの面白いしぐさや素振り、本当に笑えます。

この映画は、全世界興行収入で、約4億8460万ドルもの記録を残しています。

終わりに

ジム・キャリー彼の子ども時代は、幸せだったとは決してお世辞にも言えないつらい時期でした。しかし、病気の母親を笑わせようと健気に頑張ったことが、現在のジム・キャリーのベースになっていることは間違いありません。

金もない、何か身につけたスキルもない状況だった、子供時代のジムにとって「笑い」だけが母親のために尽くせる最後の切り札だったのでしょう。「笑い」って、どん底の人間をすくい上げる最大の武器だと彼はいつの頃か気が付いたのかもしれません。

例え、どん底の状態でも「笑い」が立ち直るきっかけになる時もありますよね。彼の生きざまを見ているとそう思えてきます。こうした苦しみや、悲しみの中から光を見出してきた人間ですから、シリアスな演技が上手いのもうなづけます。

だって、悲しみをつらさを存分に味わってきたので、取ってつけたように演技する必要がないからです。自然と演技することができます。

並々ならぬ苦労の中から、「笑い」という光を追い求め続けた彼の子ども時代と若き日々、それがジム・キャリーのコメディアンとして、かつ俳優としての成功を支えているのだと思います。

【参考URL】http://www.eiga-ranking.com/boxoffice/usa/yearly/
http://www.biography.com/people/jim-carrey-9542079#awesm=~oFOaBObDd8BaXC
http://www.aceshowbiz.com/celebrity/jim_carrey/biography_2.html

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この記事に対するコメント
  1. 日本の名無しさん より:

    コメディアンとしてはアメリカ限定だろ

  2. 日本の名無しさん より:

    最近映画では見かけなくなったな
    またコメディ映画に出まくってほしい

  3. 日本の名無しさん より:

    大泉洋みたいなもんか

  4. 日本の名無しさん より:

    ペット探偵から好きだわ
    それとツルーマンショーじゃなく、トゥルーマンショーじゃね

  5. 日本の名無しさん より:

    本人も鬱(うつ)で苦しんでたよね

  6. 日本の名無しさん より:

    この人の顔芸は凄い

  7. 日本の名無しさん より:

    ビートたけしはさらに監督としても成功してるぞ

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