デイビッド・ガフェンという人物をご存知でしょうか。
彼はアメリカの映画業界で成功した人物で、ティー分スピルバーグ・ジェフリー・カッツエンバーグとあのドリームワークス社を立ち上げ、億万長者になった人物です。
ドリームワークス社はドリームガールズやキャッツなどの有名な映画を数々と輩出している事で有名です。
デイビッド・ガフェン氏は、セレブがひしめき合うアメリカの映画業界の中でも最もリッチな人物であると言われるほどの成功を若干25歳で収めており、そのセレブとしての地位を確固たる物にしています。
そんなガフェン氏ですが、子供の頃は勉強が全くできず、大学はわずか一学期で中退。
最初に始めた仕事はCBSテレビの案内係だったのです。ガフェン氏はそこからどのようにして、現在の地位までと上り詰めたのでしょうか。彼の成功の秘訣を見ていきましょう。
デイビッド・ガフェンの生い立ち
ガフェン氏誕生
デイビッド・ガフェンは、1943年2月21日にニューヨークシティで誕生しました。
彼の両親はユダヤ系のソビエト出身で、ロシアのコミュニティから離れるためにブルックリンに移住してきました。
彼の父親であるアブラハムは刺繍の仕事をしており、母親であるバトヤは小さな女性用の下着屋を営んでいました。彼の起業家としてのスキルや理念は母親から学んだと語っています。
映画業界に興味を持ったきっかけ
彼は読書家で、ガフェン氏は幼い頃「ハリウッド・ラジャア」という映画界の大御所であるルイス・メイヤーの伝記を読んでインスパイアされ、それ以来エンターテイメント業界でのキャリアを追求したいと熱望するようになったのです。
この時のことを、ガフェン氏はこう語っています。
「この大御所のストーリーと、彼らが作り上げた世界について読んで、そんな風に仕事をして生計を立てていくのはおもしろそうだなと思ったんだ。」
そうして映画業界を目指したガフェン少年は高校では演劇と音楽のクラスを選択するなど、映画界への興味を更に深めていきます。また、彼の社交的な性格が後に彼の映画界でのキャリアを後押しする事になります。
勉強ができなかった学生時代
そんな、映画業界への夢に目覚めたガフェン氏ですが、彼は子供の頃、失読症を患っており、全然勉強ができなかったと言います。
1960年からブルックリンのニュー・アレッチ・ハイスクールに通いますが、卒業テストで、66点というギリギリの点数で卒業します。その後テキサス大学オースティン校に進学しますが、全く授業についていけず、若干一学期間滞在したあと、中退します。
カリフォルニアのロサンゼルスへと移住し、そこでサンタモニカ・カレッジに再入学しますが、そこでもすぐに中退してしまいます。
ガフェン氏のキャリア
キャリアの始まり
サンタモニカ・カレッジ中退後、ガフェン氏は、ニューヨークでCBSテレビスタジオの案内係の仕事に着きます。そこで彼はその仕事が大好きになったのです。
「ジュディ・ガーランドやレッド・スケルトンみたいな有名人が出ているテレビ番組のリハーサルを見ることができて、嬉しかったよ。でも、私は常に考えていたんだ。“私には才能がないが、何ができるだろう?”とね。」
そして、彼はCBSの案内係のポジションから毎日懸命に働き、ついにはCBSのテレビシリーズの「ザ・レポーター」のADの地位にまで上り詰めるのです。しかし、彼がプロデューサーに改善案を提案すると、それがきっかけで仕事を解雇されてしまいます。
新しい仕事を見つける
それでもテレビの仕事をあきらめ切れなかった彼は、イエローページをめくって、その中で最も大きな広告を出していたウィリアム・モリス・タレントエージェンシーに電話をして、仕事が無いかを尋ねます。
そこで郵便係として雇われ、週にわずか55ドルの給料で働き、なにかもっと大きいことができ無いかと考える日々でした。
ガフェンは郵便物配布の仕事をしながら、音楽業界のタレント達と仲良くなっていきます。
そして、郵便物係として働き始めてからわずか一年ほどでジュニア・エージェントまでに上り詰め、すぐに有名シンガーソングライターであるローラ・ナイロのマネージャーも勤め始めます。
その後ジョニ・ミッッチェルやクロスビー、スティル、ナッシュ&ヤングなどの有名人達のマネージャーも勤めました。
ガフェンはナイロの音楽を売ることで、最初の彼の資産である一億円を稼いだのです。
ついに独立
1970年にガフェンは独立し、ウィリアムモリス・エージェンシーで出会ったエリオットロバートと共にアシュラムレコードと言うレコード会社を共同創設します。
ガフェン氏はそこで、エンターテイメント業界での新しいタレントやトレンドを先見する才能をめきめきと現します。
彼はリンダ・ランスタッドやジャクソン・ブラウン、そしてイーグルズなどのスターを輩出したのです。
ガフェン氏は契約を一旦結ぶと、ガフェン氏はタレント達を大事にし、彼らを家族のように扱いました。
そしてアーティスティック面やキャリア面でのアドバイスを惜しみなく与えたのです。
1971年に彼がアシュラム・レコードをワーナーコミュニケーションズに売却した時、その取引は業界一の大きなものとなったのです。
ワーナーコミュニケーションとの合併後も、ガフェン氏はアシュラムレコードの代表取締役として残りました。
そして合併後の代表取締役としてサインしたアーティスト達は、ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェルなどの大物アーティストだったのです。
こうして、ガフェン氏はレコード業界でも主要なプレイヤーとなるのですが、彼はさらなるチャレンジを探します。
社長としてのオファー
1975年、ワーナーコミュニケーションズのCEOであるスティーブ・ロスが、ガフェン氏にワーナーブラザーズ・ピクチャーでの副社長としての地位をオファーします。
ガフェン氏は映画業界での経験は全くなかったものの、丁度探していた新しいチャンスに胸が躍り、二つ返事でOKをします。そこで彼は映画ビジネスの才能も発揮していくのです。
がんのため副社長を退任
ワーナーブラザーズ・ピクチャーで四年働いたあと、彼は末期の癌に侵され、ワーナーブラザーズ・ピクチャーの副社長を退任します。
それでもまだ仕事を続けたかった彼は、彼の初恋である音楽業界の仕事に戻り、ジョン・レノン、エルトン・ジョン、ドナ・サマーなどの超大物有名歌手を数々と輩出していきます。
そんな、成功真っ只中のガフェン氏に、以前の彼の映画業界での活躍を見ていたスティーブン・スピルバーグ氏とジェフェリー・カッツェンバーグ氏が、一緒にドリームワークスという映画会社を立ち上げないかとオファーするのです。
彼は最初、また映画業界にもどるのをためらいましたが、彼は52歳。「いつどうなるかわからない状態のまま引退して一日中怠け、暇な生活を送るのはイヤだった」と言います。
そして新しいチャレンジに乗り出したガフェン氏は、このドリームワークスで「ドリームガールズ」や「キャッツ」などの大ヒット映画を生み出し、大成功を収め、現在ではセレブとしての地位を確固たる物にしているのです。
まとめ
激動の生涯を送ってきたガフェン氏。最初は郵便係からスタートし、音楽界・映画界の大手企業の社長にまで上り詰めます。
しかしその後がんに侵され、映画業界からは一旦身を引きますが、再び来るスティーブン・スピルバーグ氏やジェフェリー・カッツェンバーグ氏などの大物からの映画会社設立のオファーにOKをし再び映画業界で活躍するなど、今の地位まで上り詰めたのですね。
彼がプロデュースしたアーティストや映画は、どの作品も私達が知っている有名なものばかりで、多くの人に夢と元気を与えています。
現在、がんに冒されてしまっているガフェン氏ですが、まだまだ映画業界で活躍しています。これからも病気に負けることなく、ぜひ多くの夢ある作品を作って、世界に元気と希望を与えていって欲しいですね!
【参考URL】http://www.biography.com/people/david-geffen-9542656
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Geffen