成功の秘訣を聞かれ、「成功を収めるのには天才でなくても、先見の明がなくてもかまわない。大学を出る必要さえない。必要なのは枠組みと夢だけだ」と語った人物がいます。
わずか19歳で事業を立ち上げ、5年後にNASDAQ株式公開を果たし、アメリカのビジネス誌フォーチュン誌が総収入に基づき選出する全米上位500社に選ばれ、1992年の初選出時には最も若い最高経営責任者であったマイケル・デルです。
起業まで
歯科医師の父、株式仲買人の母を持つデルは、テキサス州ヒューストンの裕福な家庭に生まれました。幼い頃からテクノロジーとガジェット(ユニークな機能を持ち、単体で動作する小型のデジタル機器)に目がありませんでした。
14歳の時には初期のアップル・コンピューターApple IIを買って分解し、仕組みを知ろうとしています。また、両親譲りの商才も見せていました。
12歳の頃には、収集した切手や野球選手のカードのカタログを作成して雑誌に広告を出し、郵送して2,000ドルを稼ぎます。
高校生の時には工夫を凝らした新聞配達で稼ぎます。配達地域に住んでいた新婚夫婦の名前と住所を手に入れて、一週間の無料サービスを提供したのです。この戦略で18,000ドル以上を稼ぎ、運転ができる年齢になる前にBMWを手に入れました。
医学部への進学を期待した両親の意を受け、1983年、テキサス大学オースティン校に入学します。
起業
入学後も、コンピュータのアップグレードで稼いでいたデルは、基本ユニットに様々な部品を足して機能を拡大することがビジネスになると確信します。
1984年、わずか1,000ドル(約10万円)を元手に、学生寮でコンピュータ会社を起業し、パソコンの直販を始めます。ルームメートからはいやがられ、コンピュータ部品で部屋の扉にバリケートを築かれたこともありましたが、事業はうまくいきました。
1年生の学年が終わるときには、月に8万ドル(約80万円)を稼ぐようになっていました。
1984年夏、デルは本社を寮からオースティンの店に移します。最初はIBMやコンパックなどメーカー製品にお客が選ぶ機能を追加していましたが、1985年、Turbo PCという初の自社モデルの発売を開始します。
事業拡大のため、家族から資金を借りたこともありましたが、すぐに会社は年商3,000万ドルに成長します。
1987年には会社名をデル・コンピュータ・コーポレーション(以下、「デル社」と記載します)とし、一株8.5ドルで350万株を発売。1988年末にはデルの年商は1億5,900万ドル(159億円)に達しました。
「成功するためにやることはたくさんあります。自分が好きなことだけをするというのはよいことだと思いません。会社に成功をもたらすことをしたいのです。自分が気に入ったことだけに多くの時間を費やしたりしません」
とデルは語っています。では、会社を成功させるために何をやったのでしょうか。
「デル社はお客様のニーズをライバル企業よりも理解して予測できている」というデルの言葉を裏付ける戦略を見ていきましょう。
成功をもたらした直販
デル社の躍進の要因は、なんといっても、直販モデルというコンセプトを貫いたことにあります。顧客はデル社の無料番号に電話をかけて発注します。
発注にあわせて組み立てたコンピュータが36時間以内に出荷されます。発注後、組み立てるため、在庫にかかる費用は売り上げの6%未満ですみました。
さらに、サプライヤーの大半と良好な関係を維持することにも成功します。多くのサプライヤーがオースティンにあるデル本社の近くに新しい施設を設けています。
1993年には、デル社は世界5本のコンピュータ・メーカーといわれるまでの成長を遂げました。
インターネット戦略
インターネットが有力なマーケティングツールになる可能性を秘めていることにデルはいち早く気づきます。
1996年までにはWebサイトで顧客からの受注を受けるシステムが構築されました。1990年代には、社長のデル自身がテレビ広告に出演し、デル社がオンラインのテクニカル・サポートを開始したと発表します。
この広告戦略とインターネットの利用が成長をさらに押し上げます。
デル社のインターネット戦略は個人顧客にとって便利だっただけではありません。起業顧客にとっても長所として評価されています。
自動車メーカーフォード・モーターの代表取締役は1999年に、「デル社と連絡をとるのは、他の競合企業よりもはるかに効率よく連絡をとることができる」と語っています。
その後もインターネット戦略は続きます。21世紀に突入した時には、サプライヤーとの連絡の9割にインターネットを利用するようになります。サプライヤーはインターネットで発注状況をみて、必要な製品を納品することができるのです。
この方法は、在庫の削減にもつながりました。
1997年には13日分の在庫数が必要でしたが、2000年の在庫数はわずか5日分と大幅に少なくなっています。競合企業と比べてみると驚くほど少ない在庫です。
たとえば、コンパック・コンピュータ(2002年にヒューレット・パッカードに買収)は2001年の時点で3週間以上の在庫を抱えていました。
海外への展開
海外市場への展開も成功をおさめた成長戦略の一つでした。創業よりわずか3年後の1987年には、早くもイギリスに子会社を設立しています。
1990年にはアイルランドに製造拠点を設け、ヨーロッパ、中東、アフリカ市場に販売を開始しました。1993年にはアジア太平洋地域に進出し、オーストラリア、日本に子会社を置いて活動しました。
1998年にアジア太平洋地域の受容に答えるため、中国に製造拠点を設け、1999年には南米市場の拠点としてブラジルに工場を置きました。
取扱製品の拡大
もともと成功を収めたのはカスタマイズを行ったパソコンの販売でしたが、デルは成長を続けるためにはパソコンだけではだめだと気がつきます。
大型スクリーンプロジェクター、法人向けサーバーなど取扱製品の多様化につとめた結果、2001年に売り上げは低下しました。不景気のただ中で行われたラインアップ拡大について、デルは次のように述べています。
「法人向けの製品があれば、お客様に提供する価値をあげることができると考えています。優れたサービス、製品、価値があれば、お客様は押し寄せてくるものです」
デルの言葉通り、デル社は20周年にあたる年に過去最高の利益をあげています。「創立20年目に400億ドルとは、わりのいい数字だね」というデルは冗談めかした言葉を残しています。
最高経営責任者辞任と復帰
2004年、デルは、技術部門を率いる自分と共にデル社を支え、ビジネス戦略の専門家として経営を担当してきたケビン・ロリンズに最高経営責任者の座を譲りました。会長としてはとどまったものの、第一線を退いたと感じた者は大勢いました。
その後、デル社の収益は急激に悪化します。ライバル企業がデル流のダイレクト・モデルを活用して安売り競争を仕掛ける一方、製品のリコール、オンライン注文時のトラブルなどを引き起こしてしまったのです。
結局、2007年に企業の顔であり、カリスマ的な経営者として賞賛を受け続けてきた創業者のデルが代表取締役に復帰することになります。
2013年には244億ドルで株式を買い戻す決定を行い、10月29日までに非公開化を終えました。
ドロップボックス、マイクロソフト、グーグルとの提携を深める中に行われたこの非公開化は、短期的に業績をあげることを求める株主のプレッシャーから逃れて、シンクライアントとクラウドコンピューティングに焦点を合わせるためだと言われています。
それがうまくいけば、驚異的な復活を遂げられるかもしれません。いずれにせよ、自社の新たな成長に向けてデルが歩み出していることはまちがいありません。
【参考URL】http://blogs.reuters.com/felix-salmon/2013/02/05/why-dell-is-going-private/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB
http://www.answers.com/topic/michael-dell
http://www.brainyquote.com/quotes/authors/m/michael_dell.html
http://www.biography.com/people/michael-dell-9542199#controversy&awesm=~oGmqbWdtkb0wBB
http://www.dell.com/
http://www.forbes.com/lists/2010/10/billionaires-2010_Michael-Dell_WJOB.html
http://www.forbes.com/profile/michael-dell/
http://www.msdf.org/
海外の反応はないけれど、乙です。
次は、失敗談からの成功がメインの記事をみたいな。