はじめに
現在、我々は、とても、手軽に自動車を所有し、買い物、旅行など自分で車を運転して出かけています。この、現在では当たり前になっている車の存在ですが、遠い昔は庶民が手にできるような代物ではありませんでした。
19世紀の終わりから、20世紀の始めにかけて、ガソリン車が発明され改良を加えられましたが、当時はごく一部の富裕層にしか買い取ることのできない高額なものでした。
今、我々の生活を見渡してみると、誰でも運転免許を持ち、一家に1台から2台ぐらい自動車を所有しています。
こんなに、便利な状況になるまでん様々な紆余曲折があったと思われますが、自動車を庶民が手にすることができるようにしてくれた人物と言えば、アメリカのヘンリー・フォードをおいて他にいないでしょう。
ヘンリー・フォード、彼は”自動車王”と言われています。彼がどうしてそう呼ばれるようになったのか、今回はそのわけを探っていきたいと思います。
生い立ち
ヘンリー・フォードは1863年7月30日、アメリカ、ミシガン州、ディアボーンで生まれました。父親の名前はウィリアム・フォード、母親の名前はマリーフォードといいました。父の、ウィリアムは農場を経営し、暮らしぶりは裕福でした。
10代の最初の頃、フォードは父親から懐中時計をもらいます。15歳の頃には、友達や近所の人の時計を何十回も、分解して組み立て直すことをしています。時計の修理屋として評判になりました。子どもの頃から機械いじりが好きだったのですね。
1876年、彼の母親が亡くなります。フォードは、その後落ち込み荒れてしまいます。父親は、フォードに自分の農場の跡を継いで欲しかったのですが、フォードは農場の仕事を嫌っていました。
後に、彼はこう語っています。
「私はこれっぽちも、農場に対して愛着を抱いたことはない。私が愛していたのは農場にいた母である。」
この言葉、お父様にとってはさぞかしショックだったでしょう。でも、彼がはっきりと実家の農場に興味を持っていなかったからこそ、後々の偉業ができたとも言えます。
1879年に、デトロイトにある機械工の見習いの職を見つけて彼は家を出ます。その後、”Detroit ・Dry・Dock・Coに(デトロイトにある船舶の製造、修理を手掛ける会社)移ります。3年後、彼はディアボーンに戻り実家の農場で働きます。
そこで、ウェスティングハウス製の蒸気機関の操作に長けていることから、ウェスティングハウスで蒸気機関の修理工として雇われます。
結婚、自動車の開発
1888年、フォードは、近くの農場で育ったクララ・ブライアントと結婚します。結婚して、最初の数年間は、農場と製材所の経営をして生計を立てていきました。
1891年、彼は妻のクララを連れて、デトロイトへ戻ります。エジソン照明会社で、技術者として雇われたからです。
すごい勢いで技術を磨き、会社での地位を上げます。2年後にはチーフ・エンジニアに昇進しました。その頃、フォード夫妻は一人息子のエドセルを授かります。
エジソン照明会社で忙しく働きながらも彼は余った時間で、ガソリン車の製作に励んでいました。自宅の裏の小屋で幾度も実験を繰り返します。1896年、初めて彼はガソリン車を完成させました。2気筒4馬力のエンジンを搭載して4つの車輪が付いていました。
彼はこの車を「Quadricycle」(四輪車)と名付けました。自分一人で手作りするというところがすごいですよね。今の時代では考えられないと思います。6月4日に、この車の試運転を行い、さらに改良を加える方法を検討しました。
独立して、自動車開発
デトロイトの製材王、ウィリアム・H・マーフィの経済的援助を得て、彼は、エジソン照明会社を去り、1899年の8月5日に「デトロイト自動車会社」を設立しました。
しかし、完成した自動車はフォードが期待していたよりも、性能が低く値段も高い物でした。この会社は成功することなく、1901年に解散してしまいます。
しかし、フォードはあきらめません。従業員のC・ハロルド・ウィルズの協力のもとに、新しい車を完成させます。この車は、26馬力のエンジンを搭載しており、1901年の10月レースに出て、いい成績を残しました。
そこで、ウィリアム・H・マーフィや、その他のデトロイト自動車会社時代の株主が集まり、1901年11月30日に、「ヘンリー・フォード・カンパニー」が設立されます。
フォードは新しい会社で、チーフエンジニアとして活動していました。1902年に、ウィリアム・H・マーフィは、コンサルタントとして、ヘンリー・マーティン・リーランドを抜擢します。
このことに反発してフォードは、自分の名前が付いている会社を去ります。フォードが去った後、会社の名前は「キャデラック」と改められました。
今度は元、自転車レーサーのトム・クーパーとコンビを組んで80馬力以上のレースカーを製作します。そして、1902年のレースで、バーニー・オールドフィールドが運転して優勝します。
その結果を見て、フォードの古くからの知り合いで、デトロイトで石炭の販売を手掛けていたアレキサンダー・Y・マルコムソンが、援助を申し出てきました。
彼らは、パートナーシップを組み「Ford&Malcomson,Ltd」という会社を設立しました。自動車の売れ行きは低調で、フォードが注文した部品の支払いができないでいると、マルコムソンは、奔走して、新たな出資者を数人、見つけてくれます。
そして、1903年6月16日、新たに「フォード・モーター・カンパニー」として再結成されました・
フォードは、新しい車のデモンストレーションをセント・クレア湖で行い、時速147,05キロの世界最高記録を打ち立てることができました。
この結果に満足したバーニー・オールドフィールドは、この時の車”999”で、アメリカ中を運転して回り、フォードのブランドの宣伝をしてくれました。
自動車産業の革命
ここまででもすごいのですが、フォードの活躍はまだまだこれからです。1908年10月1日、T型フォードが発表されます。
フォードは、全ての人が車の性能を信頼し、しかも購入可能な自動車を作ろうという願いのもとにTフォードを製作しました。当時、富裕層が買う手作りの自動車が3000~4000ドルであったのに対して、このT型フォードは825ドルでした。
その後も毎年値段が下げられ、1920年代にはアメリカ人のドライバーならたいがい、T型フォードの運転の仕方を知っているというほどに、需要が高まりました。
フォードは、T型フォードについての記事や広告をデトロイトのあらゆる新聞に載せて、大々的な宣伝活動を行います。また、北アメリカのほとんどの都市に、車の販売店を設立しました。
こうした活動は、フォードの宣伝になっただけではなく、社会のモータリゼーション化を推進しました。売上げは前年比、100パーセント増という離れ業を数年繰り返しています。
1913年よりフォードは、ベルトコンベアーによるライン生産方式を導入し、コスト削減、生産力強化、利益増大と大量生産の基礎となるモデルを確立しました。この生産方式は多くの工業で、取り入れられ、工業生産の発展に貢献しました。
労働者の待遇改善
1914年、日給5ドルを従業員に提示しました。その額は、従来の約2倍の金額で世界を驚かせました。その結果、デトロイトでも優秀な従業員ばかりになり、訓練のコストは低下し生産性は向上しました。
これって給料が上がると労働者ってやる気を出す。給料に投資すれば、利益は必ず自分に返ってくるという典型的な例だと思います。世の経営者の皆さん、いい人材が欲しかったらそれだけ給料を出しましょう。
終わりに
スゴイ自動車を開発したというだけではなく、彼のすごさは、その技術を庶民に分け与えたというところにあると思います。彼が成功したわけ、機械いじりが得意なだけでは、ここまでの偉業を成し遂げることはできなかったでしょう。
フォードが願った、車を全ての人が購入でき、運転して出かけてほしいという奉仕の気持ちが、社会をめざましく、豊かに進化させました。奉仕の精神を根幹としたたゆまぬ努力が、彼を成功へと導きました。
本当の成功って、自分だけじゃなく周りをも巻き込むようなものなのかもしれません。最後に、フォードの名言を綴って、終わりにしたいと思います。
「大きな事業とは財力ではなく、奉仕の力の大きさで決まる。」
【参考URL】http://na34728.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/–e716.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Ford
http://www.history.com/topics/henry-ford