お金の学校

  1. >
  2. 金持ちの成功者から学ぶ誰でも知っているレゴブロック創業者の知られざる生涯:オーレ・キアク・クリスチャンセ
PR

誰でも知っているレゴブロック創業者の知られざる生涯:オーレ・キアク・クリスチャンセ

2014/11/02
このエントリーをはてなブックマークに追加


レゴブロック。誰でも一度はこの玩具で遊んだことがあるのではないでしょうか。

世界中で子供から大人まで愛されているレゴ。この世界的に有名な玩具を最初に作ったのはデンマークの大工さんだと知っていますか。

彼の名はオーレ・キアク・クリスチャンセン。貧しい農家に生まれた彼は、やがて彼の息子達と共に世界的な企業を創りあげていきます。そんなオーレとはどんな人なのでしょうか。

オーレ・キアク・クリスチャンセンの生い立ち

オーレ・キアク・クリスチャンセンは、1891年4月7日、デンマークのユトランド半島の中央にあるフィルスコブという村で、貧しい農家の10人兄弟の一人として生まれました。

オーレは6歳の頃から、牧草地で羊の世話をしたりして家の手伝いをしていました。羊の世話しながら、オーレ少年は木片を削り小さな人形を作って遊びました。貧しい彼は玩具を買う余裕なんてなかったのです。

始まりは大工さん

14歳になると兄から大工仕事を教わり、大工として働くようになります。やがて20歳になったオーレはしばらく外国で働き、お金を貯めデンマークに戻ると、ビルンに木工所を作りました。

この小さな木工所が後に世界的企業になるレゴ社の始まりでした。

同じ頃、オーレは、外国で働いている時に知り合ったキルスティンと結婚し、二人には次々と4人の子供に恵まれます。

人生最初の試練

1924年、最初の悲劇がオーレを襲います。ある日曜の午後、幼い息子達が木工所で遊んでいると木屑に火をつけてしまい、木工所と住居が全焼する火事となりました。

オーレはこの悲劇にくじけることなく、以前より大きな建物を新しく建てます。新しい建物はオーレ一家には分不相応なもので、一家は木工所の隣のアパートで暮らし、新居の部屋は借家として貸出しました。

貧しい木工所時代

1930年アメリカに端を発した世界恐慌の波は、デンマークにも押し寄せてきました。デンマークの主な産業だった農業にも深刻な打撃を与え、オーレの元にも、家を新築したり家具を作ったりするような依頼はほとんど来なくなりました。

そんな苦しい時に、4人の子育てに追われていた妻が、まだ幼い子供達を残して亡くなります。オーレは家族の生活を支えるために少しでも売れるものをと、木工所で脚立や乳搾り用のスツール、アイロン台などといった実用的な生活雑貨を作り始めます。

レゴ、よく遊べという名の会社

そんなある日、残された幼い息子達が楽しそうに木製の小さなあひるの玩具で遊ぶ姿を目にします。その様子を見ていたオーレは雑貨を作る傍ら、木製の玩具も作り始めました。

稼ぐために、なんとか売れる物を見つけなければならなかったオーレにとって、この木製の玩具が救いの神となりました。不況で物が売れない中、玩具の販売だけは衰えをみせなかったからです。

1932年、オーレは生活雑貨と玩具を製作する会社を創立します。12歳になった息子、ゴトフレッドも父親を手伝うようになりました。ゴトフレッドはオーレにとって一番頼りになる助手になっていきます。

社名募集コンテスト

初期の頃に作っていた玩具は木製で、デザインはシンプルでしたが、品質は家具と同じ良質の素材を使い、丁寧に仕上げられた最高のものでした。「最高のものこそ価値がある」。これがオーレのモットーでした。そして、この高品質の玩具が人気を呼びます。

1934年、オーレは会社の主力製品を玩具とし、会社に新しい名前を付けようと思い立ち、社内でコンテストを開催しました。

従業員達から多くのアイデアが寄せられましたが、選ばれた名前は、オーレ自身が考えた「レゴ」でした。デンマーク語で「よく遊べ(leg godt)」という単語の略を社名にしたのです。

2度目の悲劇

1942年、回線のショートにより工場で火災が発生します。この火事により、レゴ社にとって唯一の工場と倉庫は焼け落ちてしまいました。

このときも、オーレは不屈の精神を見せます。資金を調達すると、より大きな工場の建設に取り掛かりました。

新工場は、玩具だけを製造する組み立てラインを持つ工場として設計されました。玩具の製造に特化することにしたのです。

レゴブロック誕生への道

第二次世界大戦後、オーレはプラスチックという新しい素材に将来性を感じ、興味を持つようになります。

1947年、そんなオーレの元に一人の営業マンが訪ねてきます。イギリスからプラスチックの射出成形機を売り込みにきたのです。

周囲の反対を押し切り、オーレは機械を購入しました。デンマークでは初めてのプラスチック射出成形機でした。機械の代金は会社の前年の利益の2倍という高額なものでした。

この機械を使って、オーレはプラスチック製の玩具を作り始めます。小型動物や魚の形をしたガラガラなどです。

息子達は、最初、この新素材の玩具に反対しました。値段が高すぎるし、製造できる玩具も限定されると考えたのです。この考えは数年後には間違っていると証明されます。

ブロックという玩具の出会い

機械の購入と共に、営業マンはサンプルをいくつか置いていきました。オーレはサンプルの中の玩具のブロックに目を留めます。それは、イギリスのKiddicraft社が作ったプラスチック製の玩具でした。

このブロックは、昔ながらの積み木遊びに加えて、「つなげて組み立てて遊ぶ」という要素を足すことができたのです。このブロックとの出会いがレゴ社の転機となります。

さっそくオーレ親子は改良を加えます。ブロックは「自動結合式ブロック(Automatic Binding Bricks)」と名付けられ、他のプラスチック製の玩具と共に売りに出されました。レゴブロックの誕生です。

玩具も会社もさらに進化

1949年には木製やプラスチック製の200種類にものぼる様々な玩具をレゴ社は販売するようになります。玩具の売上は順調に伸び、1952年オーレはさらに工場を増やす決断をします。

そして、1953年「Automatic Binding Bricks」は「レゴブロック」という名前に改められ、レゴの名前がすべてのブロックの内側に刻まれました。

新たなアイデア

1954年、ゴトフレッドはイギリスの玩具フェアに訪れた際に、ある玩具バイヤーと出会います。玩具について二人で話をしているときに、「玩具の世界には「システム」という考え方がないね。」とバイヤーが語りました。

この言葉が新たなアイデアをゴトフレッドに与えます。レゴブロックをシリーズとして売り出すことでした。ブロックを個別にバラバラに買っても一つの玩具として遊べるようにしたのです。

息子達が偉業を引き継いで

1957年レゴ社は創立25周年を迎え、ゴトフレッドは代表取締役に就任し、その他の息子達も要職に就きました。7人の従業員でスタートした会社は、400人の従業員が働く会社へと成長しました。

息子達がりっぱに会社を引き継いでいる姿を見ながら、オーレは1958年に66歳で亡くなりました。

レゴ社はその後、息子のゴトフレッド、孫のケル・キアクへと引き継がれ、デンマークのみならず世界中に進出し、売り上げ世界第3位を誇るグローバル企業へと発展しました。

まとめ:「よく遊べ」の名のもとに

オーレは貧しい家に生まれ、その生涯は決して順風満帆とは言い難い人生でした。しかし、困難に遭う度に家族と共に働き、乗り越えてきました。

彼自身の人生は社名の「よく遊べ」という言葉とは裏腹に仕事に邁進した人生でしたが、彼の希望は最高品質の玩具で子供達に遊んでもらうことでした。それが彼の人生を成功へと導いたのです。

【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Ole_Kirk_Christiansen
http://lego.wikia.com/wiki/Ole_Kirk_Christiansen
http://astrumpeople.com/ole-kirk-christiansen-biography-amazing-history-of-lego-company/
http://www.ideafinder.com/history/inventions/lego.htm
http://www.slideshare.net/xxxcan/ole-kirk-christiansen
http://specials.msn.com/a-list/lifestyle/famous-inventions-ss-1?imageindex=4

PR【お金の学校】では、アフィリエイトプログラムを利用し、アコム社から委託を受け広告収益を得て運営しています。
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事に対するコメント
  1. すげぇ より:

    こんな歴史があったとは知りませんでした

    まとめありがとうございます

  2. 日本の名無しさん より:

    こんな話があったんだ…

  3. 日本の名無しさん より:

    すごい

  4. 日本の名無しさん より:

    ありがとうございます。
    レゴ、大好きなので、感動です

  5. 日本の名無しさん より:

    それに比べてレゴランドの値段と飲食物の値段

  6. 日本の名無しさん より:

    初めて知りました!
    ありがとうございます。

コメントを残す