リーバイ・ストラウス(1829-1902)はドイツに生まれたユダヤ人です。移民として渡ったアメリカで、ブルージーンズを作った起業家です。
彼が完成させたデニム地の労働者用の服「リーバイス」は、ものの100年足らずで、日本を含む世界中で愛されるボトムスファッションとして定着しました。
そんなストラウスにまつわるトリビアには、こんなものがあります。
- カリフォルニア州にあるリーバイ・ストラウス本社は、ストラウスの死後まもない 1906 年、サンフランシスコの地震で倒壊してしまいました。(その後修復されています。)
- ストラウスは、貧民や孤児を助けるため、慈善団体に多額の寄付をしました。なかでも、カリフォルニア州立大学バークレー校に対する奨学金制度の確立に大きく寄与をしたことが知られています。
- 今日では、リーバイスといえばアメリカンファッションのシンボルと見なされています。
- ストラウスは生涯独身だったため、彼の死後、会社は4人の甥が引継ぎました。
- ストラウスの博物館が、出生地ドイツのブッテンハイムにあります。
リーバイ・ストラウスの生い立ちとアメリカ移民になるまで
リーバイ・ストラウスは1829年2月26日にドイツの地方都市ブッテンハイムに生まれました。
彼は 6 人きょうだいの末っ子でした。ストラウスの家系はユダヤ人で、ドイツではユダヤ人に対する差別や偏見があり暮らしにくかったため、一家はアメリカへ移民として渡ることにしました。
ストラウスは18歳のときに、母、そして姉妹と船で渡米しました。兄たちが一足先にアメリカで生活していたので、母が息子たちと一緒に住みたがったからです。
兄たちはニューヨークに住み、生地屋を開いていました。
ニューヨークでの経験とカリフォルニアでの起業
ニューヨークに移り住んでから、ストラウスは兄の店で働き、ビジネスとはいかなるものか、また、店はどうやったら大きくなるのかを実際に体験して身に着けました。
やがて彼は、ケンタッキー州で移動販売をする行商人として働くようになります。ストラウスは商品を背負って開拓地を巡ったのです。
このころのアメリカ西部は、ゴールドラッシュに沸いていました。
1853年、ストラウスはこのビジネスチャンスを逃すまいと、カリフォルニア州サンフランシスコに向かいます。といっても、彼の場合、一獲千金を求めてではなく、好景気に沸く土地で服を扱う店を開いて、ビッグビジネスにしようと考えたのです。
たしかに、人が大挙して集まるところには衣食住のサービスは欠かせません。この優れた着眼点こそが、アメリカのファッションカルチャーをやがて担うことになるのです。
リーバイ・ストラウス
ストラウスは、サンフランシスコで「リーバイ・ストラウス&カンパニー」と呼ばれる生地屋をオープンしました。
ストラウスが他店を圧倒することができた理由の一つに、彼はニューヨークにある兄たちの店から安定した仕入れをできたことが挙げられます。彼は生地だけでなく、ミシン、衣類、テント、寝具など、布製品の関連商品を手広く販売しました。
その結果、たった数年で、ストラウスのビジネスは大きく成長しました。
当初、彼は金鉱を掘り当てようとする人たち向けの商売を手掛けていましたが、サンフランシスコという街が拡大していくにつれ、彼は労働者向けだけではない、さまざまなタイプの人のための商品を、ターゲットを広げて販売し始めるようになりました。
その後、リーバイ・ストラウス&カンパニーは、小売店に対する卸としての事業も手掛けるようになり、ストラウスは地元でも著名なビジネスマンとして、人々の尊敬を集めるようになりました。
安定した仕入れで「売り逃し」を防ぎ、販売するターゲットを広げ、事業を多角化する。今の流通小売業では当たり前のことかもしれませんが、150年前には画期的なビジネス手法だったでしょう。
そして、生地を扱うことを本業にしていたストラウスが、ゴールドラッシュという時代の波に乗って、ハードな仕事をこなす労働者のための、画期的な作業ズボンを生み出します。
ブルージーンズ
1872年から1年ほどかけて、ストラウスは、取引先の仕立屋、ヤコブ・デイビスともに、耐久性のある作業ズボンを量産することに成功します。デイビスはポケットを補強するため、金属のリベットを打ち付ける方法を発明しました。
しかし、デイビスの店では、量産が不可能だったため、ストラウスに助けを求めたのです。
そこでストラウスは、デイビスを雇い、この作業ズボンの量産を実現しました。また、ストラウスは、リベットを使う方法の特許を取得しました。
この作業ズボンは当初キャンバス地で作られていましたが、改良を加え、デニムと呼ばれるタフな素材が使われるようになりました。
デニムは汚れを隠すために、青く染めあげられました。こうして、この青いデニムの作業ズボンは、「リーバイス」、あるいは「ブルージーンズ」と呼ばれ、人々の間に広まったのです。
このズボンは爆発的に売れ、ストラウスはすぐにズボンを製造する大規模な工場を作ったほどでした。彼は、ほかの服飾品の販売も続けましたが、ブルージーンズこそが彼の代名詞となり、また、実際、それが売り上げのほとんどを占めていたのです。
1902年には、今でもリーバイスの定番である「501」が発売されました。
ストラウスの死と、「リーバイス」のその後
ストラウスは1902年9月26日にサンフランシスコで亡くなりました。73歳でした。
リーバイスの死から6年後には、現在もリーバイスのレザーパッチに使われているデザイン「ツーホースマーク」が商標登録されました。
これは、両側から力強く引っ張っても破けないほど強いズボンということを象徴したものです。この商標登録は、日本でも同時期に行なわれました。
1908年には、アメリカで初の女性向けジーンズが発売されます。これは、婦人参政権が付与されるよりも早かったのです。
それから、作業ズボンとして長らく使われていたブルージーンズがファッションアイテムとして注目され始めたのが、1940年代です。
最初は、アメリカ西海岸の大学生たちが通学用として着用し始めたのがきっかけでしたが、第二次世界大戦中に軍人たちが品質に満足し、アメリカ国内に評判が広まったためとも言われています。
日本では、1970年代に日本支社が、また1982年には日本法人(株式会社)が設立され、以来、ジーンズのトップメーカーの一つとして、根強い人気を誇っています。
ストラウスの理念
ストラウスが成功者となった要因には、ゴールドラッシュという空前の商機を逃さなかったこともありますが、「人々が必要としていることに耳を傾ける」という基本姿勢があったことも挙げられます。
“empathy”(エンパシー)とは、「共感」や「感情移入」のことを指します。
リーバイ・ストラウスはこのエンパシーを重んじ、問題解決に向けて具体化する能力に長けていたからこそ、人々の支持を得るようなジーンズを作ることができたといっても過言ではないようです。
このストラウスの理念は、“originality”(独創性)や“integrity”(誠実さ)、“courage”(勇気)とともに、ストラウスの死後半世紀を経て設立された、「リーバイ・ストラウス財団」に受け継がれています。
「リーバイ・ストラウス財団」では、社会的な弱者を支援する活動が行われています。
【参考URL】
http://www.ducksters.com/biography/entrepreneurs/levi_strauss.php
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
http://www.levistrauss.co.jp/history/index.html
http://www.levistrauss.co.jp/vision/index.html
http://www.levistrauss.com/levi-strauss-foundation/
反応コメがねぇ~ぞ~。
株やパチンコなどで儲けることを考えるより、必勝法の本を出す方が儲かる
パチンコの必勝本とか見てみると
10万負けた、20万負けた、5万勝ったとか
おもしろ実践エピソードないと売れないみたいだし
100万リサーチに使ってそこそこ売れて印税10万とか
しんどくない?
レヴィ・ストロース?
リヴァイ兵長はケロロ軍曹より階級は下
昔は大好きだった、リーバイスこそ本物のジーンズと思ってた
今はブランド価値下がったね
アメリカでもあんまり人気ないとか
>6
いま人気のあるジーンズのブランドってどこ?