ジョン・D・ロックフェラー(1839-1937)は、アメリカニューヨーク州生まれ、石油業界大手のスタンダード・オイルなどの経営で財をなした人物で、史上最大とも言われる資産を保有したアメリカの大富豪です。
また引退後は社会貢献活動に多額の資金提供をしたことでも広く知られ、医療や教育などの活動に寄与する多くの財団を設立しています。
ロックフェラーに関するトリビアにはこんなものがあります。
- 彼が建設した、ニューヨークのマンハッタン中心部にそびえるロックフェラー・センター。クリスマス時期のスケートリンクや、ライトアップされるツリーが有名です。
- もっとも多いときのロックフェラーの資産は、アメリカの国内総生産 (GDP)の1.5%に匹敵したとも言われています。
- アフリカ系アメリカ人の女性のための大学に多額の資金援助を行いました。これが現在アトランタ州にあるスペルマン・カレッジになりました。
- かつては小さなバプテスト系大学に過ぎなかったシカゴ大学に3500万ドルを拠出し、アメリカ屈指の大学へと発展させました。
- 喫煙やアルコールは一切嗜みませんでした。
- 彼は1864年にローラ・スペルマンという女性と結婚し、一男四女をもうけました。
ジョン・D・ロックフェラーの生い立ち
ジョン・D・ロックフェラーは1839年7月8日に、ニューヨーク州リッチフォードの農家に生まれました。
彼の父ウィリアム(愛称は「ビッグ・ビル」)は、行商人をしており、不在がちで家にはほとんど帰ってきませんでした。ロックフェラーは6人兄弟の上から2番目であったため、母親のイライザにかわいがられ、幼い兄弟の面倒もよく見ていました。
ロックフェラーはまじめな少年でした。長男であった彼は、父が家にいないときには、よく母親の手伝いをしていました。それは自分の義務であると思っていたからです。
母親からは、ルールを守ることと、一生懸命働くことを学びました。
1853 年、一家はオハイオ州クリーブランドに転居しました。ロックフェラーはクリーブランドにある高校に通い、数学、音楽、ディベートで良い成績を残しました。
彼は卒業後、進学を希望していましたが、父親は家族のために就職をするべきだと言い聞かせ、就職に備えて、ロックフェラーは地元の商業大学で、簿記の短期ビジネスコースを受講しました。
初期のキャリア
ロックフェラーは、16歳で、簿記係として初めてフルタイムの仕事に就きました。彼は仕事を楽しくこなし、また、ビジネスについてあらゆることを吸収しようと努めていました。
ロックフェラーはほどなく、彼には起業するのに十分な知識があるという自信をもつようになりました。
1859年に、彼は友人であるモーリス・クラークと製造業を始めました。ロックフェラーは数字に強く、利益を上げる判断力にも長けており、ビジネスは開始後すぐに成功を収めることができました。
石油事業の開始と展開
1863年にロックフェラーは新しい事業に参入することを決めました。当時、油といえば夜に部屋に明かりを灯すランプぐらいしか用途がなく、その主な原料は鯨油でした。
しかし、鯨が乱獲され始めると、鯨油はどんどん高価なものになっていきました。ロックフェラーは、「灯油」という当時においては全く新しい種類のランプ用燃料のことを知り、その新燃料に投資することを決めました。
灯油は地下から掘削された石油から精製されるもので、ロックフェラーとクラークは石油精製業を始めました。しかし、ロックフェラーはクラークとしだいに折り合いが悪くなっていき、1865年に72,500ドルでクラークの持っていた精製工場をすべて買い取ってしまいました。
その後、化学者のアンドリュースと一緒に、ロックフェラー&アンドリュースと呼ばれる石油会社を設立しました。
ロックフェラーは、石油ビジネスを成長させるための専門知識を駆使し、大きな利益を上げました。コストを制御し利益の再投資を続けた結果、会社はすぐにクリーブランドで最大、アメリカ国内でも大手の石油精製会社となりました。
スタンダード・オイル社の設立
ロックフェラーは 1870年にスタンダード・オイル社という別の会社を設立しました。
彼は既存の自社工場の事業を引き継ごうと、ライバル会社を吸収合併して会社を大きくしていきました。他社の精製所を買収したあとはさまざまな改良を加え、効率的かつ利益を生み出しやすい精製所に改装しました。
多くの場合、彼はライバル会社に十分な買収価格を提示して売却をせまり、条件を飲まなければそのまま倒産に追い込む手法を取りました。こうして、ライバル会社の多くは、ロックフェラーへの身売りを決めたのです。
石油業界での独占
ロックフェラーは、世界の石油ビジネスのすべてを掌握したいと思うようになりました。それが可能となったおりには、彼は石油ビジネスでの独占を果たし競争がなくなるからです。
そう考えた彼は、石油精製業を傘下に収めただけでなく、石油パイプライン、林業用の森林地、鉄鉱山、鉄道車、原油樽の製造工場、配送トラックの流通など関連ビジネスへの投資を始めました。
また、スタンダード・オイルは、ペンキ、タール、接着剤などの、数百種に及ぶ石油製品を製造しました。1880年代、彼の会社では世界のオイルの約90%にあたる量の精製を手がけたほか、1882年には、ロックフェラー経営の、各州に分散していた会社の経営を一手にまとめるために、スタンダード・オイル・トラストが設立されました。トラストにはおよそ7000万ドルの価値があり、当時、世界最大の会社となりました。
そのころ、多くの人々がスタンダード・オイルの石油事業における独占状態を、公正ではないと感じるようになりました。州政府は、企業間競争を促す法整備を行い、スタンダード・オイルの影響を減らそうと試みましたが、あまり実効性はありませんでした。
1890年、不公平な商慣行による独占を防ぐための「シャーマン反トラスト法」が、米国政府により可決されました。可決から約20年後の1911年に、スタンダード・オイルはその反トラスト法違反に問われ、複数企業に分割されてしまいました。
ロックフェラー=史上最大の大富豪?
こうした数々の逆風にもかかわらず、1916年に、ロックフェラーは世界で最初の億万長者(ビリオネア)となりました。その頃の彼は実業から手を引いていたにもかかわらず、投資による資産が増加していったからです。
彼の総資産は、現在の金額換算では約3500億ドル(約35.6兆円)と推定されます。そのため、多くの歴史家が、ロックフェラーこそが歴史上、もっとも裕福な男であろうと推定しているのです。
社会貢献活動
ロックフェラーは、単に大富豪だったというわけではありません。
彼は、実業家を引退した後、可能な限りの寄付を行ったのです。寄付した額の多さでは、彼は世界屈指の慈善家の一人と言えます。ロックフェラーは世界をより良くするため喜んでお金を使ったのです。
彼は主に医学研究、教育、科学および芸術方面への寄付を行いました。合計で約5億4000万ドル(約550億円)を慈善事業に費やしたとされています。
この金額だけを見ても、彼はこれまでの世界史上、いまだかつてない社会貢献活動家であったと言えるでしょう。
ロックフェラーの死および遺産
ロックフェラーは1937年5月23日に動脈硬化により死去しました。97才でした。遺産は、彼の慈善寄付団体とロックフェラー財団を通じ、今も受け継がれています。
【参考URL】http://www.ducksters.com/biography/entrepreneurs/john_d_rockefeller.php
すごいと思います逆風にたえてものすごい苦労があったと思います 批判や裏切り のうのうと暮らしてる奴等にはわからないだろう
その資産を手に、下層民を奴隷にして彼らのお友だちだけが優雅に暮らしていける世界的な社会整備を世紀を越えて実施していまーす。
ロスチャイルド家は世界を、ロックフェラーは主にアメリカを支配しているユダヤ金融ネットワークの大物です。リンカーンやケネディは彼らのように金融界を牛耳るユダヤ人に暗殺されました。彼らを儲けさせなかったからです。
年収は、おいくら万円
人間は欲を制御出来ない出来損ないの群体であり、そんな種族が「お金」という悪用出来てしまうものを手にしたら100%良いようには使わないだろうなと予測するのは至極簡単なことだと思うのだが