ミルトン・スネベリー・ハーシー(1857-1945)はアメリカ・ペンシルバニア州生まれの菓子職人・実業家です。店の倒産や破産にもめげず、キャラメル会社の経営を経て、キャラメルにかけるチョコレートを製造する会社を設立します。
これがやがて、キスチョコが有名なハーシー・チョコレート株式会社となり、アメリカ国内はもちろん、世界中のチョコレートファンの舌を楽しませることになります。
ハーシーはまた、孤児のための職業訓練校を設立するなど、慈善活動家としても有名です。
そんなハーシーのトリビアには、こんなものがあります。
- ハーシーの出身地は、アメリカ南北戦争最大の激戦地、「ゲティスバーグの戦い」が行われた場所のすぐそばにあり、ハーシー自身も砲弾の音を聞いていました。
- ハーシーの名前にちなんでつけられたペンシルベニア州ハーシーには、ココア・アベニューとチョコレート・アベニューというユニークな名前の2つの大きな通りがあります。
- ペンシルバニア州ハーシーにあるホテル、ザ・ホテル・ハーシーはもともと、チョコレート工場の従業員用の福利厚生施設でしたが、いまでは高級ホテルとして宿泊客を楽しませています。
- ハーシーと彼の妻キティは、かの有名な豪華客船タイタニック号に乗船予定でしたが、直前になって予約をキャンセルし、命拾いをしました。
- ペンシルバニア州ハーシーには、上記のホテルのほか、ハーシー・パーク・アミューズメントや、ハーシーズ・チョコレート・ワールドといった娯楽施設が数多くあります。
ミルトン・ハーシーの生い立ちと就職するまで
ミルトン・ハーシーは、 1857年9月13日、アメリカのペンシルバニア州にあるデリーという小さな町で生まれました。彼の父ヘンリーは手っ取り早く稼ぐ方法を探しては、次々と職を変えているような男で、母のファニーは信仰に厚い人でした。
ハーシーが9歳のとき、たった一人の兄弟である妹、セリーナが病気で亡くなってしまいます。ハーシーの一家は以後、3人暮らしとなりました。
ハーシーは父が職を変えるごとに引っ越しを余儀なくされたため、まともな教育を受けられませんでした。13歳になるまでに、彼は6回も転校をしたのです。それで、成績は良かったものの、ハーシーが授業についていくのはとても大変でした。
そんな生活の中、彼の母は、ハーシーには学校の勉強よりも商売のノウハウを学んでほしいと思っていました。それで母は、印刷工の見習の仕事を見つけてきました。
原版をセットして紙とインクを補充する仕事でしたが、それを非常に退屈だと感じたハーシーは仕事に身が入りませんでした。
それでも2年間その仕事を勤めた後、母に職探しを手伝ってもらい、キャンディを製造する仕事をすることになります。
キャンディ製造技術の習得と、2度の出店失敗
こうして1872年、15歳のハーシーはジョゼフ・ロイヤーがオーナーをつとめるランカスター菓子店で働くことになりました。ここで、ハーシーは、キャラメルやファッジ、ペパーミントなど、あらゆるキャンディの作り方を学びました。
彼はこの仕事を通じて、「お菓子を作る」ということに魅了され、今後の人生の残りを、この仕事に賭けてみようと思うようになりました。
そこでハーシーは19歳のとき、自分の店を持つことを決意します。彼はおじとおばから店の開設資金を借り、大都市フィラデルフィアで店をオープンしました。ハーシーはキャンディはもちろん、ナッツ類やアイスクリームといったおやつ全般を店で扱いました。
しかし、どんなに一生懸命働いても店の利益はほとんど上がりませんでした。
ハーシーはビジネスを拡大することはできず、結局、資金をすべて使い果たしてしまいます。最初の店を閉店するよりほかに手立てはありませんでした。
しかし、ハーシーは決してあきらめませんでした。彼はコロラド州デンバーに引っ越し、もういちどキャンディを作るお店に勤めました。
そのお店では、新鮮な牛乳を使った高級なミルクキャンディを扱っており、ここでハーシーは、そのミルクキャンディの作り方を学びます。
技術に自信を持った彼は、次にニューヨークに店を開きますが、残念なことにこの店も閉店に追い込まれてしまいます。ハーシーの2度目の挫折でした。
故郷での出直しと事業の成功
2度も店をつぶしてしまったハーシーは、故郷のペンシルベニア州ランカスターに戻りました。普通であれば、そのような経験に懲りて、別な仕事をするか勤め人に甘んじてもおかしくない状態です。
しかし、それでもなお、ハーシーはめげずに新しいお菓子のビジネスを始めることにしました。過去2度失敗から学び、菓子店の形態をとらずキャラメルの製造に特化することにしました。
これが3度目の正直となり、この「ランカスター・キャラメル・カンパニー」というキャラメル製造会社は大きな成功を収めました。アメリカ国内に新しいキャンディ工場や支店を多く開き、ビジネスを拡大していきました。
ハーシーは、このときやっと長年夢見ていた実業家の仲間入りができたのです。
チョコレート会社の設立
キャラメル製造会社の成功で無事に富豪の仲間入りをしたハーシーでしたが、それだけで彼は満足しませんでした。次にチョコレートにまつわるビジネスを立ち上げます。
なんと、すでに100万ドルの売り上げを誇る大企業になっていたランカスター・キャラメル・カンパニーを売却し、その資金をチョコレートの製造に充てたのです。
彼は多くの人の舌をうならせるような、おいしくて手頃な値段のチョコレートを作りたいと考えました。そこでハーシーは、アメリカ国内でも屈指の規模を誇る工場の建設を計画したのです。
課題は、その巨大工場で働く労働者をいかに確保するか、ということでした。
「ハーシータウン」の建設
ハーシーは労働者を確保するため、巨大工場だけでなく、街そのものを作ってみようと計画を立てました。その無謀すぎる構想に、誰一人賛同しませんでしたが、ハーシーは計画を実現させ、ペンシルバニア州に自分の名前を付けた街を作りました。
住宅はもちろん、郵便局、教会、学校などを建設し、従業員に提供したのです。こうしたインフラ整備が功を奏し、チョコレート会社は成功しました。
こうして、ハーシーズチョコレートは世界で最も有名なチョコレート会社となったのです。
ハーシーの晩年
ハーシーは、1945年 10月 13日に死亡しました。88歳でした。
ハーシーと妻キティとの間に子供はいませんでしたが、彼は、孤児のための職業訓練校を設立し、その運営するために6,000万ドルに及ぶ資金を信託基金に預けます。
この学校は、現在The Milton Hershey Schoolという名称になり、学費や医療費は無料で生徒を受け入れています。
ハーシーが成功者となった理由
2度の店舗倒産から立ち直る不屈の精神はもちろんですが、彼はすぐれた実業家に必要とされる過去の過ちから学び、改善を加えたことにあるでしょう。
チョコレートを作る計画を立てたとき、彼は製品をミルクチョコレートバーに一本化しました。シンプルな製造ラインで大量生産できるので、低価格での販売が可能になります。
これは「誰でもチョコレートを買うことができるようにする」というハーシーの信念に基づくものでもあります。
そうして成功を重ねるにつれ、福利厚生に力を入れた従業員の質の工場や、効果的な広告戦略、キスチョコに代表される製品の多角化といったビジネスの拡大が可能になったのです。
【参考URL】http://www.ducksters.com/biography/entrepreneurs/milton_hershey.php
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC
http://www.hersheyjapan.com/about.html
http://www.thehotelhershey.com/overview.php
この人は立派な人かもしれんが、ハーシーが美味しいとはお世辞にも言えない・・・
それでも終戦後米兵の配るハーシーはチョコの代名詞だったんや
アメリカ産のハーシーズは不味いっていうのを聞いたことがあるけど
少なくとも日本で普通に売ってるハーシーズはそこまで悪くないよね
アメちゃんに貰ったハーシーズのミルクチョコは乳臭くてクソ不味かったな
あいつら舌おかしいわマジで
ハーシーとチョコレート工場
アメリカのハーシーズチョコってすんごい臭いよね
あれ何の臭いなん?
日本のも臭いと思うけど本場のには負けるわ
※3
日本のハーシーズはライセンス生産で日本のメーカーが作っているから。
パッケージセンスは素晴らしい!
臭いはウ○コ
中国製のゴミをボッタクリ価格で売ってる印象しかない
甘すぎるよね
牛乳で作ったチョコはハーシーぐらいしか知らない、カカオバター以外の植物性油脂の入ったチョコしか知らない連中はこの美味しさは分からないよな。ジャイアントミルクチョコレートがあったら、5枚くらいは即買。
アマプラでやってる、ザ・フード アメリカ巨大食品メーカー という番組でハーシーの創業物語が出てるよ
あの香りは、最初に作ったときに知らずに牛乳を腐らせてしまってたときの香りらしい。今はそれを頑張って再現しているという。