1993年、アメリカのスポーツ誌『スポーティング・ニュース』が選んだ「スポーツ界で最も権威のある人物」はスポーツ選手でも、監督でもチームのオーナーでもありませんでした。ナイキの創業家であり経営者であるフィル・ナイトが選出されたのです。
ナイトが1971年に創立したナイキは世界中の伝説的な名選手から週末だけスポーツに興じるアマチュア選手まで幅広く支持され、スポーツ界で並ぶものがない影響力をもつメーカーであるというのがその理由です。
わずか20年で、マーケティングのひらめきをと妥協を知らない競争力を駆使してスポーツシューズ業界に革命をもたらしたフィル・ナイトはどういう人物なのでしょうか。
スポーツがビジネスのきっかけに
大学での出会い
1938年生まれのフィル・ナイトは幼い頃からスポーツが大好きでした。特に陸上に力をいれ、優れた選手とみなされていました。
オレゴン大学に進学した後も陸上を続けますが、競技以上に大事な出会いがありました。コーチのビル・バウワーマンと出会ったのです。
指導力に優れたコーチだっただけではありませんでした。少しでも教え子が速く走れるようにと、シューズの開発にも力をいれていたのです。
早くも1954年に自分のデザインを大手スポーツメーカーに売り込み、メーカーからも技術を学んでオリジナルのシューズを作りました。そして自分の教え子達に履かせては試行錯誤を繰り返していたのです。
ナイトはバウワーマンから走る技術だけでなく、道具開発についても学びます。
ビジネススクールで書いた事業計画
とはいえ、将来のナイキの青写真を描いたのはスタンフォード大学ビジネススクールでMBAを学んだときのことでした。
よく知っている分野での起業について書くという課題がでたときに、ナイトは当然のようにランニングを主題にし、日本の安い労働力を使って高品質のランニングシューズを取り扱う事業計画を書きあげました。
安い高品質のランニングシューズうであれば、アディダスやプーマといった大手企業ともはりあえると考えたのです。
ビジネスの世界へ
オニツカタイガーの販売
1962年、ビジネススクールを卒業したナイトは、この事業計画を実行に移します。まず日本に飛び、オニツカ株式会社(現アシックス)を訪れました。
翌年1964年に、オニツカタイガー・ブランドをはいたレスリング、バレーボール、マラソンなどの選手は東京オリンピックで大活躍しますので、高品質の製品を選んだといってよいでしょう。
オニツカの幹部を説得してサンプルを送ってもらい、パートナーが製品を確かめてから発注すると約束します。実はこのとき、ナイトにはまだパートナーがいませんでした。
もちろんパートナーの目星はつけていました。オレゴン大学で世話になったバウワーマンです。父から借金をして送ってもらったサンプルをバウワーマンに送って創業をもちかけたところ、バウワーマンは話にのってくれました。
二人は500ドルずつだしあい、ブルーリボンスポーツ社を立ち上げ、オニツカタイガーから200足を購入します。ナイトは自分の車にオニツカタイガー製品を乗せて、各競技会場に販売にでかけたのでした。
初期の頃は苦労したようです。ブルーリボンスポーツ社の売り上げだけで食べていくことはできませんでした。ナイトはポートランド州立大学で会計学を教え、生計を稼ぐことになります。
とはいえ、1970年にはいると、売り上げは300万ドルに達します。オニツカタイガーはランナーたちの中でカルト的人気を獲得しました。
しかし、野心に燃えるナイトはこの程度の成功では満足できませんでした。
バウラーマンの傑作 コルテッツとワッフルソール
この間、バウワーマンは独自の優れたデザインを産み出し続けていました。
後に「ナイキコルテッツ」と呼ばれるランニングシューズは1968年、ワッフルソールは1971年にデザインされています。ナイキコルテッツはトラック上で最も優れたクッション性を提供する最軽量のシューズでした。
1辺約5mmの正方形の突起物が並ぶワッフルソールは、バウワーマンが朝食の時にワッフルメーカーを見て思いついたといわれています。クッション性にすぐれ、すべりにくいために、路面が濡れていても、硬くても、対応することができました。
バウワーマンがデザインした優れたシューズを売り込むため、オニヅカタイガーとの契約をやめ、独自ブランドの立ち上げに踏み切るようになります。
ナイキがスポーツ界に君臨するまで
ブランドのロゴ「スウッシュ」
1971年、ギリシャの勝利の女神にちなんだナイキ(勝利の女神「ニケ」の英語読み)という名をブランド名にするアイデアが浮かびました。
ブランドのイメージを伝えるロゴマークも用意しました。
ナイキのロゴマークは、ニケの彫像の翼をヒントにデザインしたものといわれています。疾走、勢いよく動くという意味の言葉「スウッシュ」と名付けられたことでもわかるように、スピードと躍動感を感じさせます。
ちなみにスウッシュをデザインしたのは、ナイトが教えていたポートランド州立大学で出会ったグラフィック・デザイン科の学生キャロライン・デビッドソンで、請求されたロゴデザイン料はわずか35ドルでした。
ナイキ創立
初のナイキブランドのシューズが市場にデビューしたのは1972年、衝撃を吸収し、クッション性をよくするためエアバッグをミッドソールの中に入れるという方法を使った画期的な技術「エア」を搭載した製品の発売を開始したのが1979年。
ブルーリボンスポーツが正式にナイキと社名を変更したのが1981年12月31日のことでした。
マーケティング戦略
ナイトのマーケティング戦略はシンプルなものです。広告は嫌いました。かわりに、トップアスリートからナイキ製シューズへの支持を取り付けてブランドの知名度をあげるという戦略をとりました。
タイミングもよかったといえるでしょう。バウワーマンは1972年のオリンピック大会のコーチに選ばれていました。そのおかげもあり、中長距離の名選手スティーブ・プロフォンテンなどにナイキブランドのシューズをはいてもらうことに成功しました。
いわば、トップアスリートを宣伝につかったこの戦略は見事にあたりました。ナイキをはいたアスリートの活躍をテレビで見た消費者はナイキブランドを求めるようになります。
たとえば、テニス界の悪童と呼ばれたジョン・マッケンローがくるぶしを痛めてナイキ製品をはきはじめると、同じ型のシューズの売り上げは、これまでの1万足から100万足にはねあがりました。
とくに、バスケットボールの神様といわれたマイケル・ジョーダンとナイキは強い結びつきを作りあげています。エアジョーダンと名付けられたナイキのバスケットシューズは、初年度だけで1億ドルを超える大ヒットとなっています。
優れた技術とマーケティング戦略があいまったナイキは、1980年代前半には成功に次ぐ成功を収めます。1986年には10億ドルを超える売り上げとなり、アディダスを抜いて世界第一のシューズメーカーとなったのでした。
波乱の中の舵取り
デザイン性を求める消費者へのアピール
とはいえ好調はいつまでも続きませんでした。1986年から1987年にかけて、売り上げは18%低下します。
ナイキの技術が産み出す機能に対するプロのアスリートからの支持はあいかわらず続いていました。しかし、消費者は機能性よりもデザイン製を求めるようになっていたのです。
消費者の要求にこたえるため、ナイトは変革をアピールします。
ソールにエアクッションをいれたナイキエアマルチパーパスを発売開始した時は、ビートルズの「レボリューション」を使ったコマーシャルで、「革命的な製品」であることをみせようとしました。これにより売り上げはまた上昇していきます。
リーバックを抜いて業界1位に返り咲いたのは1990年のことです。以来、児童労働問題など様々な問題に直面しながらも、ナイトの指導の下、ナイキを業界トップの座守り続けています。
【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Phil_Knight
http://www.4-traders.com/business-leaders/Philip-Knight-241/biography/
http://www.brainyquote.com/quotes/authors/p/phil_knight.html
http://www.entrepreneur.com/article/197534
アシックスとナイキの関係って今はいいの?
裁判やってたけど和解したんじゃなかったのかなぁ、たしか。