日本では、まだ馴染みのないアメリカ発祥の巨大スーパマーッケットチェーン、ウォルマート。今や、世界中に店舗を広げています。
店に入ると、広い店舗の中には、食料品から日用品など、沢山の商品が並んでいます。また、値段も手頃な価格の商品が多くみられるのが特徴の一つです。
アメリカ国内では、4、205軒、国外では6,119権もの店舗で、そのビジネスを展開しています。
今回は、その創立者である、サム・ ウォルトンがウォルマートを創立するまでのその数奇な人生を追ってみました。
サム・ウォルトンの出生から
サム・ウォルトンは、1918年3月29日に、アメリカのオクラホマ州キングフィッシャーで、父トーマス・G・ウォルトンと、母のナンシー・リー・ウォルトンの間に、2人兄弟の長男として産まれました。
ウォルトン家はオクラホマで、所有していた農地で農業を営んでいましたが、十分な利益が得られないと、家族でミズーリ州に引っ越すことになります。
その後、ミズーリ州の小さな町転々とします。住む場所を転々とする中、定期購読の雑誌の販売をするなど、幼い頃から起業家としての頭角を現し始めました。
中学2年生の時には、最年少で、ボーイスカウトの中で最高位である、イーグルスカウトの位を得ました。それは、ウォルトンの今後の人生において成し遂げた数々の功績の始まりでもありました。
サム・ウォルトンの青年期から成人まで
学校での成績もさることながら、アスリートとしても優秀でした。高校生になったウォルトンは, アメリカンフットボールでクウォーターバックとして活躍しました。
その後、コロンビアのミズーリ大学に進学しは、経済学を学びます。
在学中、レストランのウェイターや、学校のプールのライフガード、新聞配達などをしながら、学費をまかないました。1940年に大学を卒業して3日後、アイオワ州デモイン市にあるジェイ・シー・ペニー(アメリカのデパート)で働き始めます。
これが、ウォルトンが最初に小売業界に足を踏み入れる第一歩となりました。そこで経験を積んでいましたが、同時に、第二次世界大戦のさなかだったために、軍に服することとなり、小売業界から一時離れることになります。
除隊する頃には、大尉の地位にのぼりつめていたウォルトンですが、その頃、自分で店を経営したいという望みが強くなっていました。
1945年、遂にサムの夢が叶う時がきました。義父の援助と、軍隊の時の貯金で、アーカンソー州ニューポートに店舗を購入したのです。
ウォルトンの店は、ボルター・ブラザーズの加盟店で、ベンフランクリンという雑貨店でした。ボルターブラザーズの助けのもと、彼の店は6つの州のなかで、売り上げ,利益共にトップに立ちました。
サム・ウォルトンのビジネス法
ウォルトンはどのように経営し、そしてトップに躍り出たのでしょうか?
1. 価格設定と品揃え
2. 立地条件
3. 営業時間
4. 値引き販売の実現
ウォルトンのこれらの案は、その当時のビジネスにおいて、まだ珍しく新しいアイディアでした。サムは先手をうった経営法で成功を収めたのです。
ウォルトンの新たな夢の実現〜ウォルトン5&10とショッピングセンターの店舗展開〜
サム・ウォルトンは常に目標をもち、新たな夢の実現に取り組み続ける人でした。
アーカンソー州フェーエットビルで、第二の店舗をオープンすることにしました。それが、『ウォルトン5&10』です。この店舗は、ベンフランクリンの加盟店ではなかったのですが、彼の経営する他の店舗同様、成功をおさめました。
よりより経営のために様々なアイディアを熟考し続けるウォルトンは、新たに“セルフサービス”というコンセプトを経営に取り入れることにしました。
それまで、店舗の至る所に設置してあった会計場所を、店舗の出入り口の近くに設置し直すことで、顧客が一度に全ての商品の会計を済ませることが可能となりました。
また、レジの店員が、軽量化した買い物カゴから商品をだして、レジを通し、袋に入れ、会計を済ませた客はそのまま店を出られるというシステムも導入しました。
顧客の立場を考えたサービスはとどまることなく、他にも幅広い品揃え、特別なキャンペーンの取り組み、店舗内の照明は明るくし、そして清潔感を保つことを心がけました。従業員には利益の何パーセントかを共有することで誠実さを示しました。
ウォルトンは弟と義理の父の援助をうけ、さらに店舗数を増やしました。
1954年には弟と共にミズーリ州カンザスシティの近くのショッピングセンターに店舗を設け、そこそこの利益を得ることができ、アーカンサス州でも、同じように経営しようとしました。
しかし、他の店舗のように、思うような利益をえることができず、ショッピングセンター内で店舗を展開することをやめ、原点である、小売店舗の経営に力を注ぐことにしました。
ウォルトンファミリーセンター(Walton Family Center)
ウォルトンは、より規模を拡大した店舗をオープンさせました。それは、『ウォルトンファミリーセンター』(Walton Family Center)と呼ばれました。
この店舗を経営するにあたり、サムは、新しい店舗をオープンさせるごとに、監督下にある店舗に出資するならば、その責任が出資金のみと限定される、リミテッドパートナーとなる機会を提供することにしました。
そして、出資金額は最大1千ドル、日本円にして約10万円(1ドル=100円とする)としました。
これにより、各店舗マネージャーが利益を最大限、確保できるようになり、同時によりよい経営をするために精進するようになりました。
このことから、ウォルトンの経営法が成功への鍵となったことがわかります。1962年までに、ウォルトンと彼の弟は、アーカンサス、ミズーリ、カンザスに多くの商品を取り扱うバラエティーストア(生鮮食品は除く)を16店舗オープンさせました。
これまでの彼の経営術はのちに、ウォルマート(Wal-Mart)を開く過程において大きな役割を果たすこととなります。
ウォルマート(Wal-Mart)
1962年にウォルトンがオープンさせた店、それがウォルマートであり、世界トップの販売店となりました。その成功により、多くの人に、雇用の機会を提供することができるようになったのです。
また、彼はその地域の人々や顧客また、従業員にも手厚いサービスを行いました。いくつか紹介しましょう。
- 地元に根ざすことにより、一人一人が地元で働きやすい環境を作る
- 高卒採用に力を入れ、彼らの功績によって大学の奨学金を提供する
- 慈善活動を行って資金を集め、地元に寄付する
このような試みによって、その地域にウォルマートが根付き、人々から愛され、成功を収めたといっても過言ではないかもしれません。今日も、ウォルトンの精神は従業員に受け継がれています。
サムの人物像
最後に、サム・ウォルトンとはどういう人物だったのか。これまでの記述に加えて、紹介したいと思います。
最初、ウォルトンの大胆なビジネス方法は、必ずしも多くの支持を得ていた訳ではありませんでした。にも関わらず、展開するビジジネスでは成功を収めました。
その成功には、ウォルトン独特の方法がありました。
彼は始めに、ありとあらゆるルールを学び知識を得て、その後、理解しがたい、また必要ではないと感じたルールを省いていくという方法をとりました。そのため、彼の行うことは全て明確で確実なものでした。
何より彼の成功の秘訣は、自分の志を必ず達成するという強い意志と実行力にありました。
勤勉家としても知られているウォルトンは、亡くなるまで学び続けることを怠りませんでした。彼の語った言葉に、このようなものがあります。
「一人一人から学ぶことができる。」
また、地域に貢献することにも力を入れていたサムは次のようにも語っています。
「共に働けば、全ての人々の生活をより良いものにすることができる。私たちは、アメリカに限らず、世界中の人々に、節約すること、それによってより良い暮らしができることを知ってもらう機会を提供しているのです。」
ウォルトンの向上心、向学心、目標を達成するための強い意志と行動力から、学ぶべきことは多々あるのではないでしょうか。
どんなに成功を収めようと、それによって名声が高まろうと、「学び続ける」という謙虚さと、現状維持だけを重視せず、時には斬新とも思われる発想で周りを驚かせ、魅了させ続けたウォルトンは、今でもその功績とともに人々の心に生き続けていることでしょう。
必ずしも、環境もまた条件にも恵まれていたわけではありませんでしたが、そういう中で、自分の出来ることを最大限行い、野心を持ち続け、時には逆風が吹いたとしても自分の歩むべき道を決して見失わずに己を貫き通す。
人々の生活を豊かにするために働き続けたサム・ウォルトンの人生に対する姿勢そのものが、彼を成功への道へ導いたといったのかもしれません。
【参考URL】http://corporate.walmart.com/our-story/history/sam-walton
http://corporate.walmart.com/our-story/our-business/locations/
http://hbswk.hbs.edu/item/2375.html
http://www.stfrancis.edu/content/ba/ghkickul/stuwebs/bbios/biograph/walton1.htm
従業員のことを考えてないあの企業ですね。
アメリカの商業基準をぶっ壊した奴としてこれから記憶されていくんだろうね・・・