グルベンキアン、と聞いてどんな人かすぐに浮かぶ人は少ないでしょう。
中東で石油が大々的に産出され始め、その利権を各国が争った時代に利権を見事に調整してその見返りに5%の権利を得て大富豪になり、「ミスター5%」と呼ばれた人物です。
カルースト・サルキス・グルベンキアン
いかにして、一個人が欧米の大手石油資本と互角に肩を並べ、権利を得たのか。彼の生い立ちから見ていくことにしましょう。
生い立ち
グルベンキアンは、現在のイスタンブール(トルコ)、オスマントルコ時代のコンスタンティノープルで1869年、アルメニア人の貿易商の息子として生まれました。父の取扱商品に石油も含まれていました。
日本で言えば、ちょうど明治維新。イギリスでは石炭による蒸気機関車が人々を乗せて走っていましたが、まだ電球や発電機は発明されていない頃です。
石油は、古代より燃える水として珍重されていましたが、1850年頃から北米で機械式の採掘が始まり、大量生産の時代になりつつありました。1863年には、アメリカでロックフェラーが大規模な石油精製を始めています。ちょうどそんな時代でした。
父は、グルベンキアンをロンドンのキングズカレッジに留学させ、そこで石油工学を学ばせたり、バクー(ロシア)に行かせてロシアの石油業界の事情を調べさせたりしました。
間もなく、オスマントルコのアブドゥル・ハミット二世がアルメニア人を対象とした大虐殺を始めると、一家は1896年に国外へ脱出、最終的にエジプトに落ち着きます。
グルベンキアンはここで、石油業界の大物でアルメニア人のアレクサンダー・マンタシェフに出会いました。マンタシェフのお陰で、イギリス総領事のサー・エブリン・ベアリング等のカイロの有力者に知己を得ます。
ミスター5%の始まり
まだ20代だったグルベンキアン。ロンドンへ移り、石油業界で働き始め、1902年にはイギリスの市民権を取得しました。彼はこの時、今でも有名なロイヤル・ダッチ・シェルという石油会社の創設に関わります。
ロイヤル・ダッチという石油会社とシェルという貿易・輸送の会社の合併に彼が貢献したため、その報酬として新会社の5%の株式を得たのです。「ミスター5%」と呼ばれるゆえんとなった、取引の5%を得る習慣はこの時から始まったのです。
1912年、欧州の石油大手数社が、オスマン帝国領イラクの石油採掘権を他に渡さず共同で専有するための「トルコ石油会社」を設立するにあたり、グルベンキアンはその推進役として尽力しました。
出資者は、アングロ・ペルシアン石油会社(現在のBP)、ロイヤル・ダッチ・シェル、ドイツ銀行でした。ところが、ちょうど話がまとまるかと思われた頃、第一次世界大戦が勃発し、プロジェクトは中断します。
戦後、オスマン帝国が解体されるに伴い、イラクはイギリスの委任統治領となりました。どの会社がトルコ石油会社の株主になるのか、関係者の間で熱い交渉が延々と続きました。トルコ石油会社は、1925年にイラクでの独占的な石油採掘権を得ていたのです。
ある時、ババ・グルグルで巨大な油田が発見されたことで一気に話がまとまり、1928年7月、アングロ・ペルシアン、ロイヤル・ダッチ・シェル、フランス石油、そしてスタンダード・オイルとの間でいわゆる「赤線協定」と呼ばれる合意が成立しました。
協定では、どの会社がトルコ石油会社に投資できるのかを定めており、それ以外の者がイラクの石油利権に関わることも、出資者が別の方法で石油利権に関わることも禁止する「自粛条項」が含まれていました。
地図の上でこの協定の適用範囲を、グルベンキアンが赤い線で示したことからこの名前があると言われています。
グルベンキアン以外は、メジャーと呼ばれる欧米の石油会社大手でした。そして、この調整の見返りに、欧米メジャーと肩を並べて5%の株をグルベンキアンが保有することになりました。
画期的な仕組み
トルコ石油会社の仕組みは、当時としては画期的なものでした。「自粛条項」により参加者やその行動を制限し、石油価格を高く安定させ、最終的に出資者の利益を保護していました。
協定について様々な意見はありますが、同様の仕組みであるOPEC(石油輸出機構)より30年も早く実現されていたという点で、非常に先進的でした。
ところが、実際は、現地のパシャはグルベンキアンに全イラクの石油利権を与えていたので、グルベンキアンはこれを独占することもできました。
しかし、グルベンキアンは、単に独り占めするより、大半の利権を各国の大企業に与えることによって全体の規模を拡大し成長させられると考えました。そして、彼は実際に、こうして他社の事業拡大に乗って富を得たのです。
後に彼はこう言っています、「小さなパイの大きな一切れよりも、大きなパイの小さな一切れの方がいい」と。彼は、関わる取引すべてに、5%を要求したそうです。それより多くも少なくもなく。
これはまさに彼の哲学でした。そしてそれが彼の富を生んだのです。
イラクの石油は、世界4位の埋蔵量を誇ります。赤線協定はこの後20年間、この地域の石油利権のルールを決めました。
その間、欧米のメジャーが手を尽くして開発し、大量の石油が採掘され、販売されました。この間、イラクの石油利権の5%がどの程度の経済価値を持ったか、説明するまでもありません。
まとめ
グルベンキアンは莫大な富を得て、後には美術品蒐集や慈善活動に注力しました。第二次世界大戦頃にフランスに移り、最後はリスボンで余生を過ごし、1955年に亡くなりました。
彼の資産は、280〜840億円、現在の価値で10兆円。当時世界トップクラスの富豪といわれ、集めた美術品は美術館が開けるほどでした。
もし、地図に赤線を引いて話がまとまった時、皆さんがグルベンキアンの立場にいたらどうするでしょうか。5%で満足したでしょうか。そもそも、全権利は自分が持っているのだからと、最初から独占するかもしれません。
独占でき、それが長期間保持できたら、5%の20倍もの利権になったでしょう。
しかし、様々な関係者が関与していたからこそ、絶妙のバランスが保たれたという側面も無視できません。あの地域で一個人が全利権を得たら、結果として86歳まで無事に生き、あのような資産を蓄えることはできなかったかもしれません。
常に5%の利権を確保する、多くも少なくもなく5% — 彼のこの哲学を形作ったのは何だったのか、それはわかりません。
どの国でも常に少数派で、石油採掘の将来性も把握していた聡明なガルベンキアンは、パワーバランスを保ちながら長期的に利益を確保するにはどうしたよいか、分かっていたのかもしれません。
ガルベンキアンの哲学から、私たちも学べるところがありそうです。
取れるものは全部取ろうとしていませんか。少し抑えることで、より長期的に良好な関係で継続ができるのではないでしょうか。そして、そうした収入源を複数積み重ねることで、リスクを分散できるのではないでしょうか。
【参考URL】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Calouste_Gulbenkian
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%B7%9A%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://books.google.co.jp/books?id=hsALOP-k6-gC&pg=PA33&lpg=PA33&dq=%22Better+a+small+piece+of+a+big+pie,+than+a+big+piece+of+a+small+one.%22&source=bl&ots=RZAGX1WKvK&sig=vzcE5bycQWG9d-67vxY3y9AOO_Y&hl=ja&sa=X&ei=ZIuNU7O_OovVkwXFhIGgAg&ved=0CDgQ6AEwAg#v=onepage&q=%22Better%20a%20small%20piece%20of%20a%20big%20pie%2C%20than%20a%20big%20piece%20of%20a%20small%20one.%22&f=false