初めに
「大脱走」「荒野の7人」「」・・等、世界的に有名な映画に出演し、その存在感を示しているスティーブ・マックウィーン、(アメリカ合衆国の俳優)。
彼のアクションに惹きつけられるファンは、世界中にいます。しかし、アクション以外にも、様々なものを塗りこめた味のある演技を彼はしています。
ただ、雰囲気があるというだけではなく、彼の仕草や素振りからにじみ出るものに私は、ものすごく魅力を感じていました。今回は、俳優スティーブ・マックウィーンの魅力について、彼の生きてきた軌跡を辿りながら探っていきたいと思います。
生い立ち
スティーブ・マックウィーンは、1930年3月24日にアメリカのインディアナ州、ビーチグローブで生まれます。
父親は曲芸飛行士で、ウィリアムといいました。父親のウィリアムは、スティーブ・マックウィーンが生まれてからわずか、生後6か月の時に息子と母親のジュリアンを捨てます。
母親は、その当時小さい子供を育てることにどう対処していいのかわからず、マックウィーンを祖父母のもとに預けます。彼は、祖父母と一緒に暮らします。
しばらくして、祖父母は祖母の兄弟であるクロードのもとに引っ越します。クロードは、農場を経営していました。スティーブは、ここでクロードから愛情を受けて育ちます。
4歳の時、クロードは彼に赤い3輪車を買ってくれました。後に、スティーブは「これが自分が、レースに興味を持つきっかけになった。」と話しています。
スティーブが8歳の時、母親が再婚します。彼は、母親と母親の再婚相手と暮らすため、インディアナポリスに引っ越すことになります。
出発の日、クロードから彼は金の懐中時計をもらいます。そのケースには、こう彫られていました。「息子スティーブへ送る」と、彼にとってはかけがえのない思い出です。
彼は、新しい生活になじむことができずに、家出して暴力団に加わったりします。スティーブの扱いに困った母親は、彼をまたクロードのところへ戻します。
母親は2度目の離婚をした後、3度目の結婚をします。スティーブが12歳の時です。母親はまたスティーブと暮らしたいと、クロードに頼んでスティーブと母親、そして新しい義理の父との生活が始まります。
義理の父親は、母親とスティーブに暴力をふるう人でした。スティーブは、暴力団のメンバーになり荒れた生活を送ります。ついには、車のホイールキャップを盗んだ罪で警察に捕まってしまいます。
スティーブの父親は、母親を説得して彼を少年感化院へ送ります。
そこでの生活に最初は、彼はもがいて苦しみます。規則を破ったり、何度か脱走も試みます。そんなことを繰り返しながら少年感化院のスタッフと打ち解け、ついには落ち着いた生活を送るようになります。
彼がこの施設にいる間母親は一度も面会には来ず、まれに手紙を書くぐらいの交流しかしていません。
16歳の時、彼は母親のもとを訪れますが、母親はスティーブと一緒に暮らすことを拒みました。それで、スティーブは、母親のもとを去り商船の乗組員になります。
ここまで見ていくと、本当に不遇な子供時代ですね。あまりお母さんから愛情を注いでもらっていないような感じがします。
子どもが荒れるのは、100パーセント愛情不足が、原因だと思います。彼が、恵まれない境遇の人を演じている時、自然で無理していないと思っていましたが、こうした経験が無意識のうちに活かされているのかもしれません。
商船の乗組員をやめた後、彼はいろんな仕事を転々とします。17歳で海兵隊に入隊します。ここでまた脱走を繰り返し、戻っては降格されるといったことを繰り返しています。
1950年に除隊してからはニューヨークにもどり、これといった目標もなくバーテンダーや、タクシーのドライバーなどで生計を立てて暮らしていました。
俳優の道のスタート
彼はガールフレンドのアドバイスで、自分の天職に気が付くことになります。
1951年、ネイバーフッド・プレイハウスに入学し演技について学び始めます。彼の最初の演技は、イディッシュ演劇プロダクションの芝居でたった一つのセリフを言うことでした。そのセリフも、たった4回上演のあと、カットされてしまいます。
そのころ週末になると、彼はオートバイのレースに出場して賞金を稼いでいます。オートバイのレースに出場しながら、その間、彼はマイナーな役を演じています。1955年には、ブロード・ウェーでのデビューを飾ります。
また、「アクターズ・スタジオ」に所属して、リー・ストラスバーグから演技指導を受け、自分の演技の腕を磨いていきます。1956年には「傷だらけの栄光」で初の映画デビューを果たします。
ブレイク
スティーブ・マックウィーンの初のブレイクは、1958年のTVドラマ「拳銃無宿」です。大ヒットとなり3年間放送されました。彼は、こうしてハリウッドからも注目されるようになります。
1959年に、映画「Great St. Louis Bank Robbery」で初主演をしました。また、戦争映画「Never So Few 」で、フランクシナトラと共演しました。
1960年、彼の作品の中でも代表的な映画「荒野の七人」が、公開されます。この映画は日本の映画「七人の侍」をリメイクしたものです。
世界中の映画ファンに「映画っていいですねー」と言わせるのにふさわしい作品です。出演している七人の用心棒たちが、またいい男ぞろいです。
スティーブ・マックウィーンは、この映画で数々の銃撃戦やアクションを披露します。いやその動きの速いこと、走っている馬に自分も走りながら飛び乗ったり、野性のかんで動いているって感じです。そこら辺のアスリートより、かっこいいです。本当に!
一番印象に残ったセリフが、村人たちに裏切られた後、7人の用心棒たちが、また村に戻ってきます。山賊カルデラに「なんで、戻ってきた?」と聞かれて、スティーブ・マックウィーンが演じるヴィンが、ひょうひょうと答えます。
「昔、裸のままサボテンの上に飛び降りた奴の話を聞いたことがある。その時はそれでいいと思ったそうだ。」
・・もうこのセリフ、演技が上手いからこなせるわけではありません。不遇な少年時代を過ごしてきた彼だからこそ、言っても違和感がないと思うのです。
もう何も自分に失って怖いものはない。でも、これだけはやらねば、という使命感の中にも、さわやかさを感じます。
子供時代、クロードおじさんの農場で思いっきり動き回った経験、そして安住の地を求めてさまよった10代、そんな経験のあるスティーブだからこそ、この役柄が演じきれたのだと思います。
もし、恵まれた境遇で育てられたスティーブ・マックウィーンだったら、こうした役は似合わなかったかもしれません。
また、1963年に公開された「大脱走」は、世界的大ヒットとなります。彼は、少年感化院にいた頃、それに軍隊にいた頃も、脱走を試みた経験があり、脱走に執念を燃やすヒルツの役は、はまり役と言えます。
バイクで逃げ、国境のフェンスを越えることができなかったあのシーン、「あと少しだったのに!」と思ったこと覚えています。
最後に、ドイツ軍につかまえられても、また、グローブをもらい、独房で壁打ちをするところ、彼の不屈の精神が、表現れていて、しかも”さわやかさ”さえ感じます。この映画はアカデミ賞の編集賞にノミネートされました。
病気とあまりにも若い死
その後も、1966年の「砲艦サンパウロ」や、1972年の「ゲッタ・ウェイ」1973年の「パピヨン」・・・等世界的に大ヒットを記録していきます。
次々と映画に登場し、ハリウッドスターとして栄光をつかんだスティーブでしたが、癌にかかり1980年の「ハンター」が、彼の遺作となりました。メキシコの病院で手術を受けますが、癌は、全身に転移しており、時すでに遅く、50歳の若さでこの世を去ります。
終わりに
スティーブ・マックウィーンは子どもの頃、不遇な人生を歩んできました。しかし、その経験が、彼を深みのある存在感のある俳優へと育ててくれました。
いろんな映画を見ていると、ハッピーエンドもいいんですが、それだけじゃ心から救われない人も多いと思います。
世界の端々で不幸な目にあい、失望を何度も味わってきた人間には、そういった映画では満足できないこともあるはずです。でも、スティーブ・マックウィーンのように、こんな不遇な境涯で、しかも前進し続ける彼の演技は心を突き動かされるものがあります。
上品な王子様だけの映画じゃ、面白くありませんよね。不幸の中から這い上がり、つらい目にあっている人々を包み込む彼の演技こそが、彼を成功へと導いたのだと思います。彼のつらい子供時代は、決して無駄ではなかったのです。
また、スティーブ・マックウィーンの映画を見たくなりました。
【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen
http://www.thebiographychannel.co.uk/biographies/steve-mcqueen.html
http://www.biography.com/people/steve-mcqueen-9394602#early-life&awesm=~oFO5p0txsFLKJh
クウィーン・エリザベス
good liner notes
大脱走
昔は確かにアメリカに対する憧れがあった。
彼こそがアメリカンだった、彼の時代、彼の同期こそがアメリカンだった。
しかし今はもう憧れは無い、今見るとダサすぎる。
ネットで白人の我がままと傲慢さが全部消してくれた。
昔のアメリカは良かった。今はゴミ・ユダヤの僕が蠢いているだけ。早く世の中から消えちまえ!
ブリット