私が高校生の頃部活動をしていたら、ブラスバンド部員の人たちが「ロッキーのテーマ」をしょっちゅう練習していました。この曲にのせられて、「今日もやるぞ!」という気持ちで部活動に励んでいたものです。
「ロッキーのテーマ」を、口ずさみながらふざけてロードワークのマネをしたり、学生時代は飲み会で、「エイドリアーン」とロッキーのマネをしている友達もいました。それぐらい、「ロッキー」は自分たちの心の中に浸透していたと思います。
そう、今回は世界的な映画スターの一人であり、映画「ロッキー」で主役を演じたシルヴェスター・スタローンについて語らせていただきたいと思います。思い出すと、本当に懐かしいです。
生い立ち
シルヴェスター・スタローンは、1946年7月6日、ニューヨークで生まれました。出産の際、医師による鉗子の操作ミスにより、彼の顔面の神経が切断されてしまいます。
そのため口びるや舌、あごに部分的なマヒが残っており、彼の発音には不明瞭なところがあります。また、下唇が垂れ下がっているのもこの時の事故の後遺症です。
話すと言葉がはっきりしない。下唇が垂れ下がっている。こうしたことが原因で、シルヴェスター・スタローンは子どもの頃いじめを受け、内向的な子供になります。
彼の両親は仲が悪くけんかが絶えませんでした。スタローンは、自分と彼の弟フランク・スタローン(現在B級映画の俳優である。)を支えて必死に生きていました。
もともとあまり仲が良くはなかった両親は、とうとう離婚してしまいます。シルベスター・スタローンにとって10代の思春期は、重苦しいつらい時期でした。
15歳の時、スタローンはフィラデルフィアに引っ越します。そこで、母親のジャッキーと新しくジャッキーの夫となった人と一緒に暮らし始めます。
10代の一番多感な時期ですから、義理のお父さんと合わせていくのも、大変だったのでしょう。スタローンは精神的に荒れ、また学校の成績の方も思わしくなく、いくつかの学校で放校処分をうけています。
スタローンは、重量上げを高校に入学するまでしていましたが、デヴェウックス高校の時、フェンシングやフットボール、陸上競技の円盤投げに打ち込んでいました。
なるほど、子供の時から身体を動かすのが得意だったわけなんですね。そりゃ、そうでしょ。
あれだけのアクションスターになるには、運動神経が良くないとね。こうやって、身体を鍛えていた経験がのちのち活かされるようになるわけですね。
映画俳優を目指すきっかけ
高校を卒業した後、彼はスイスにあるアメリカン・カレッジの奨学金を受けることになります。そこで、陸上の女子のコーチを引き受けて指導する日々を送っていました。
演劇も勉強し、大学で製作されている演劇、「セールスマン、アーサー・ミラーの死」で主役を演じたりもしました。この頃から、スタローンは、俳優への道を進んでいきます。主役を演じてその魅力に惹かれたのかもしれませんね。
その後、スタローンはアメリカに帰国して、マイアミ大学で演劇の勉強を始めます。3年間同大学の演劇学科で学びましたが中退します。
1969年に彼の俳優になるという夢をかなえるべく、スタローンは、ニューヨークへと旅立ちます。
下積み時代
ニューヨークに引っ越してから、スタローンはあらゆるオーディションを受けて回ります。しかし、時たま舞台の仕事がもらえるだけでした。
スタローンは、生きていくために様々な仕事をやります。動物園のライオン小屋の掃除をしたり、映画館の案内役をしたりアダルト映画に出演したこともあります。
生きていくためにやむを得ずこうした手段に頼らざるを得なかったと、のちにスタローンは語っています。我々の想像を絶する下積み次第ですね。よくあきらめずに頑張ってこられたと思います。
1971年、彼は「ゴッド・ファーザー」の出演を断られてしまいひどく落胆します。しかし、立ち直り映画の脚本を書くことに没頭します。映画の脚本に、次々に脚本を書き上げその中のいくつが製作されました。
1974年、サーシャ・チャックと結婚します。彼が脚本を手がけた映画「ブルックリンの青春」が製作され彼もその映画に出演します。
この時の演技が、数人の評論家に認められ、わずかばかりの成功を勝ち取ります。そして、俳優としてのキャリアのアップを夢見て、今度はハリウッドへ引っ越します。
映画「ロッキー」について
29歳の時、スタローンは、ボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチを観戦します。「モハメッド・アリ対チャック・ウェップナー」の対戦を見て、そこからヒントを得、自宅に戻り、ものすごい勢いで映画の脚本を書きます。
わずか3日で完成した脚本、それが「ロッキー」の脚本です。
彼は、この脚本を持ちこみ、様々なスタジオで売り込みます。この脚本に興味を持ったプロデューサーは、この作品を「ロバートレッドフォード」を主役にして製作しようと考えていました。
しかし、スタローンは自分を主役にしないならこの脚本は売れないと、この契約を断ります。
貧しい環境の中、「自分が主役をやる!」と、言いきるところすごいですよね。しかも、スタローンの妻はこの時妊娠しています。なかなかできることではありません。結局、制作会社側が予算を低下することでおれスタローンが主役になるわけです。
思うにスタローンは、この脚本は、荒れた青春時代を過ごし、貧しさの中からはい上がっていく自分自身を書いたものだから他人には譲れないと思っていたんでしょう。
魂の叫びみたいなものが湧いてきたんでしょうね。書くことって自分の生きざまを書くことと言いますが、スタローンは、それをやっていたんだと思います。
1976年映画「ロッキー」が公開されました。世界的な大ヒットを飛ばし同年のアカデミー賞で、主演男優賞や脚本賞を含むたくさんの部門でノミネートされます。
優秀な作品が並んだ競争の中で「ロッキー」は、作品賞や監督賞を受賞しました。すごいですね。
その後のスタローン
一躍、世界的スターの仲間入りをしたスタローンです。その後も、「ロッキー2」(1979年)では、スタローン自身が脚本を書き監督をやり、しかも主役を演じました。これは、世界中で2億万ドルもの興行収入を得ました。「ロッキー3」(1982年)も、大ヒット作品となりました。
「ロッキー」の作品の製作を行う一方で、彼は違うジャンルの作品に挑戦します。そう「ランボー」です。これはベトナム帰還兵のストーリーで、捕虜となり虐待を受けた経歴のあるジョン・ランボーが主人公です。ジョン・ランボーはいわゆる傭兵です。
このランボーで展開されるアクションは、運動神経が優れているからできるアクションではありません。生きるためにぎりぎりの戦いをしてきた、スタローンだからこそできるアクションです。と、私は思います。
「ランボー」はその後、シーリーズ化され世界的にヒットを飛ばします。こうしたアクション俳優として活躍しながら、スタローンは自分の俳優としての幅を拡げようと、様々な役柄に挑戦していきます。
アニメーション映画で声優を務めたこともあります。(「アンツ」、1998年)
そうした過程を経て2006年、「ロッキー・ザ・ファイナル」が、公開されます。これも、世界的に大ヒットとなります。
「人生はどんなパンチよりも重い。そして、お前を打ちのめす。だが、休まず前進し続けろ!その先に勝利がある。」
と息子に諭す場面、胸がジーンとなります。人生という名のリングで、戦い続けたスタローンだからこそ、言えるセリフですよね。
2008年「ランボー最後の戦場」が公開され、こちらも大成功をおさめます。それでも、挑戦し続けるスタローン、今度は世界的に有名なアクションスターたちと組んで映画「エクスペンダブルズ」(2010年)の監督を務め出演します。
こちらも、話題を呼び、シリーズ化されました。2014年11月に「エクスペンダブルズ3」が日本で公開されます。
まとめ
60歳を過ぎても、アクションに挑戦し続けるシルベスター・スタローン、このパワー本当にスゴイです。そのほとばしる情熱、尊敬します。
「何があろうと、必死に前を向いて生き続けること、その先に光が見えてくる。」ということを、映画を通して彼が伝えてくれました。
今回、彼の半生を辿ることにより、俳優って、自分が戦い続けているからこそ、演じる資格があるんだなと、思い知らされました。「打ちのめされても、休まず前進し続ける人間が、人生で成功する。」と学ばせていただきました。
「胸を打つ感動をありがとうございます。」と、彼に伝えたいです。これからも身体をいたわりながら、挑戦し続けていかれることを願っております。
【参考URL】http://www.thebiographychannel.co.uk/biographies/sylvester-stallone.html
http://www.biography.com/people/sylvester-stallone-9491745#aspiring-actor&awesm=~oFNVqgd1