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優しい巨人 ティム・ダンカン

2015/01/30
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ティム・ダンカンは全米バスケットボールチームのサンアントニオ・スパーズに所属するプロのバスケットボールプレイヤーです。

アメリカでは、サンアントニオ・スパーズはファンを多く抱えるチームであり、2014年には全米のチャンピオンシップにも輝いた優秀なチームなのです。

そんなチームを率いる存在であるダンカン氏。しかし少年時代には情熱を注いでいた水泳のあきらめや最愛の母の他界など、絶望的な状況を経験します。

そんな悲劇からの葛藤とイライラを発散しようと始めたバスケットボールで、彼はどんどんと才能を発揮していきます。

バスケットを始めた頃は彼の二メートル以上の長身と体重100キロ以上の巨体にも関わらずぎこちなく、しかしそこからどんどんと自分の殻を破ってプロのバスケットボール選手までに成長します。

ダンカン氏は小さな町から出てきた選手である上に、多くの選手が幼少期からバスケットボールに従事している中で、高校生から始めたバスケットボールで道を切り開いて行くことは決して簡単ではなかったはずです。

それをどのようにして乗り越え、成功したのでしょうか。ダンカン氏の成功の秘訣をのぞいて見ましょう。

ダンカン氏の生い立ち

そんなスーパープレイヤーのティム・ダンカン氏。彼はどのように生まれ育ち、スーパープレイヤーに育ったのでしょうか。彼の生い立ちを見ていきましょう。

水泳選手としてスタート

ティモシー・セオドア・ダンカンは1976年4月25日に、イオンとウィリアムダンカンの間に一人息子として誕生します。

彼は現在2m11cmと長身で、体重113kgという巨体の選手です。

彼はセイント・クロックスと言うアメリカ領バージンアイランドの小さな町でクリスチャンとして育てられ、シェリルとトリシアという二人の妹と一緒に育ちます。

小さな頃からダンカンは才能溢れる少年で、最初は水泳でオリンピックのレベルの選手として活躍していました。彼の両親はダンカン氏のスポーツへの情熱に支援的で、ダンカン氏の才能はどんどんと伸びていきます。

10代の部門では水泳業界では知らない人はいないほど有名な選手となり、1992年のオリンピックでアメリカ代表の選手としてオリンピック出場するために練習を重ねます。

水泳選手からの転機

オリンピック出場のために熱心に練習を重ねていたダンカン氏ですが、ハリケーン・ヒューゴがバージンアイランド唯一のオリンピックサイズのスイミングプールを崩壊させてしまい、ダンカン氏は海での練習を余儀なくされるのです。

しかし、鮫が怖かった少年時代のダンカン氏。急に練習へのやる気がみるみると落ちていきます。そしてダンカン氏は二度と水泳競技に出場する事は無くなってしまったのです。

母の病気

また、同じ頃、13歳だったダンカン少年に悪いニュースが訪れます。母親が乳がんと診断され、彼の14歳の誕生日の前の日に他界してしまうのです。

病床で、母親はダンカン氏と妹達に、必ず大学を卒業するよう約束させます。

そんな背景があり、後にプロのバスケットボール選手として大学生のうちにスカウトを受けた際、ダンカン氏は大学を中退するのを拒否します。

バスケットボールへ転向

水泳をあきらめ、最愛の母の死を経験して落ち込んでいたダンカン氏。彼は義理の兄弟の影響を受け、バスケットボールを始めるのです。

そうして情熱を注いでいた水泳からバスケットボールへと転向したダンカン氏ですが、様々な落胆と葛藤を発散できるのでは無いかと思って始めたものの、最初はゲームに苦戦します。

当時の高校のコーチであるナンシー・ポモロイはこう語っています。

「(ダンカン氏は)とても巨大だったのです。巨大で長身でしたが、その当時とてもぎこちない選手でした。」

バスケットボールでも才能発揮!

しかし、三年生になる頃には一ゲーム平均25点という高スコアの記録をたたき出し、高校代表としてプレイするようになり、そんな最初のぎこちなさも一振されます。

彼のプレイは多くの大学のバスケットボールチームから注目され、特にウェスト・フォレスト大学のコーチであるデイヴ・オドムはダンカン氏に熱烈な興味を持ちました。

オドム氏は、丁度その時長身で、バスケットゴールのすぐ横でプレイできる選手を探しており、ダンカン氏は彼の理想にぴったりだったのです。

しかし、バージンアイランドのバスケットボールのレベルの低さを考慮し、オドム氏は最初、ダンカン氏が本当に彼が求めている人材なのか心配していました。

しかし、実際にダンカン氏と対話してみると、彼はアスリートとしての才能を持ち合わせているだけでなく、学習能力がかなり高い選手であると気づいたのです。

結局、ダンカン氏はハートフォード大学、デルウェア大学、プロビデンス大学からのオファーを全て断って、ウェイク・フォレスト大学でオドム氏の下でプレイする事を選ぶのです。

ダンカン氏のキャリア

今ではスパーズのスーパープレイヤーであるティム・ダンカン氏ですが、彼のキャリアはどのようにして築かれたのでしょうか。彼のキャリアの歴史を見ていきましょう。

プロとしての活動

そして大学在学中にもNBAからオファーが来ますが、母との約束を果たしたいと考えたダンカン氏。

一旦オファーを断ったものの、大学卒業する春にはNBAドラフトでサンアントニオスパーズが、ダンカン氏をドラフト一位で指名します。

デイビッド・ロビンソン氏とチームを組み、ツートップとして活躍していたものの、1997年にはロビンソン氏が怪我でシーズン出場できず、ダンカン氏がスパーズをその年のチャンピオンシップ優勝に導くのです。

ゲーム平均21ポイント、12リバウンドという好記録をマークし、その年のNBAルーキー賞を受賞します。

翌年にはダンカン氏のリードでサンアントニオスパーズは初めてその年のタイトルを獲得し、ダンカン氏の実力を聴衆に見せ付けることになるのです。

ニューヨーク・ニックスとの試合では、ダンカン氏はゲーム平均27ポイント、14リバウンドというハイスコアをたたき出し、その年のファイナルMVPを獲得します。

元々のパートナーであるデイビッド・ロビンソンは怪我の後、プレイが伸び悩んでしまったものの、ダンカン氏はどんどん成長していき、スパーズを強豪チームへと率いていきます。

彼のゲームや性格は他のトップ選手たちのように攻撃的なものではなく穏やかですが、それでもNBA全体がティム・ダンカン氏に多くの敬意を払っています。

ユタ州のチームのコーチであるジェリー・スロアンはこう語っています。「彼は自分のポジションで、独特のプレイスタイルを確立している選手だ。彼に変わる選手は他にはいない」と。

ダンカン氏のプライベートライフ

そんな穏やかなイメージを持つティム・ダンカン氏。プライベートでも多くの寄付を行うなどし、サンアントニオやバージンアイランドの市民から幅広く愛されています。

素顔のダンカン氏

ティム・ダンカン氏は2001年に、大学時代からのガールフレンドであったエイミーと結婚し、娘と息子を共に設けます。

コート外では、ダンカン氏はアクティブにコミュニティと関わっています。

ダンカン・ファウンデーションを立ち上げ、公共健康と教育、レイクリエーションのための寄付を彼の拠点であるテキサス州サンアントニオと彼の故郷であるバージンアイランドのセイント・クロックスの子供達のために積極的に行っています。

まとめ

母親の他界や水泳へのあきらめなど、絶望的な状況を少年時代に経験しながらも、それを跳ね除け、バスケットボールの道へと進んだダンカン氏。

多くの人が幼少からバスケットボールを経験している中で、高校生から始めたバスケットボールは最初は決して簡単ではありませんでした。それでも真摯に練習し、プロにまで上り詰めたダンカン氏。

また、母親との約束を守るために在学中はプロからのオファーも断り、大学を卒業してからプロの道へ。

そしてプライベートライフでは、大学時代からずっと付き合ってきた彼女と結婚するなど、彼のライフストーリーからは真摯で真面目で誠実な、ダンカン氏の人柄がひしひしと伝わってきます。

他のトップで活躍している選手が攻撃的な姿勢で相手を威嚇したり、セレブリティぶりを見せ付けたりした選手が多い中、ダンカン選手はいつも穏やかで、地に足の付いたプレイや態度を見せています。

2メートルの巨体でありながらもそんな穏やかな「優しい巨人」が多くのファンを魅了しているのでしょう。

現在でも彼は、サンアントニオ・スパーズきってのトッププレイヤーで、2014年のチャンピオンシップではスパーズを優勝に導きました。これからも、彼の才能と類稀なる学習能力で、更なる活躍を期待したいですね!

【参考URL】http://www.biography.com/people/tim-duncan-40996#personal-life&
http://en.wikipedia.org/wiki/Tim_Duncan

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この記事に対するコメント
  1. 日本の名無しさん より:

    このやろう!

  2. 日本の名無しさん より:

    目がうるうるしてきた。
    次のスパーズの試合、思い出さずには見られないだろうな。

  3. 日本の名無しさん より:

    プレイも非常に堅実だし、アメリカ人のNBAトップレベルプレイヤーには珍しくオリンピックにもしっかり出る。
    因みに本名はかなり長い。

  4. 日本の名無しさん より:

    彼は十代で母の死 水泳の挫折を
    体験して乗り越えた
    そのことが彼を成長させた
    んだと思う
    彼のコート内外の真摯な行いは
    素晴らしい
    マイケルジョーダンの華やかさは
    ないが彼ほど真摯的で堅実なプレーを
    した選手は見たことがありません
    お疲れ様でしたと言いたい。

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