名立たる大企業の経営者や投資家などが名前を連ねる億万長者リストで、一際異彩を放つ人物がいます。プロレス団体WWEのCEO兼会長、ヴィンス・マクマホーンです。
経営者として手腕を振るい何億ドルもの資産を築きながら、自ら悪役レスラーとしてリングに立つこの人物。ヴィンス・マクマホーン。興味がわきますよね。どんな人物なんでしょうか。
ヴィンス・マクマホーンの生い立ち
ヴィンスは、1945年8月24日ノースカロライナ州パインハーストに生まれます。赤ん坊のときに両親が離婚したため、ヴィンスは母親とトレーラーで暮らします。そして、たびたび代わる育ての父親達に暴力を振るわれながら育ちました。
やっと実の父親、ヴィンセント・シニアと会うのは12歳になった時でした。父ヴィンセントは、ヴィンスの祖父が創設したキャピトル・レスリング・コーポレーション (CWC)という団体のオーナーで、プロレスやボクシングの興行を行っていました。
プロレスは代々の家業
CWC(後にWWWF)は、アメリカ北東部で非常に人気があった団体でした。父と巡り合ったヴィンスは、プロレスの仕事に興味を持ちレスラーになりたいと思うようになりますが、父は「興行主は表に出るもんじゃない。」と反対しました。
父は、ヴィンスが法律か経営の仕事に就くことを望んだため、ヴィンスは1964年、陸軍士官学校に入学しました。士官学校卒業後、イースト・カロライナカレッジに進学し、経営学を学びました。
カレッジ卒業後、ヴィンスは大学の後輩リンダと結婚します。そして、しばらくは全米を旅するセールスマンの仕事などをしていました。
10代の頃からプロレスの仕事を手伝っていたヴィンスは、やがて父の経営する団体に参加し、プロレス事業について学ぶようになります。
プロレス・ビジネスへの野望を胸に
ヴィンスの最初の仕事はリングアナウンサーでした。
その後、1971年、メイン州バンゴーでの興行を任されるようになります。すぐにヴィンスは優れたビジネスの才能を発揮し、バンゴーでの興行を成功させ、ニューイングランド一帯の興行を任されるようになりました。
オーナーとして独立
1970年代、プロレス事業の傍ら、ヴィンスはボクシングの興行や父が買ったケープコッドコロシアムでのイベントを興行し、スポーツイベントについて学んでいきます。
1980年、ヴィンスは引退した父の後を継いで、WWF(WWWFから改名)の会長に就任します。そして、1982年、父からプロレス事業を買い取りました。
37歳になったヴィンスは、アメリカのプロレス業界の性格そのものを変えていく事業の拡大に取り組んでいきます。
プロレスはエンターテイメントだ!
WWFは地方の団体で、その興行はアメリカ東北部に限られていました。
その当時、プロレスのプロモーター各々が自身のテリトリーを持ち、他の団体の縄張りでは興行を行わないというのが暗黙の了解だったのです。
プロレス業界の風雲児ヴィンスは以前のシステムを無視し、新しい才能を採用し、全米あちこちの競争相手を買収して、アメリカ全土の進出を目指しました。
プロレスは長い間どっちつかずの中途半端な位置にありました。
多くの人には真っ当なスポーツとは考えられず、ぱっとしない低俗な娯楽とバカにされてきたのです。ヴィンスはそのことをよくわかった上で、プロレスのエンターテイメント性を強調した興行を行っていきます。
イッツ プロレス・ショー・タイム
興行に人気のポップ歌手を呼びステージを派手に飾り立てて、レスラーにもきらびやかな衣装を身に着けさせ、その紹介はまるでショーのように演出しました。そうやって観客やケーブルTVの視聴者を楽しませ、アメリカ全土で旋風を巻き起こしていきます。
この旋風にMTVが加わります。ミュージックビデオを主に放送するMTVで放送することで、更なる新しい観客層が生まれたのです。
WWFの看板、ハルク・ホーガンはプロレスを代表する新しい顔となりました。
ハルクの親しみやすいルックスのおかげで、プロレスはマッチョな男たちのスポーツイベントから家族全員で楽しめるイベントへとなりました。
ヴィンスは、ますます人気が出てきたスターレスラー達を中心にしてペイパービュー放送向けイベントにも力を入れます。こうして、WWFは莫大な利益を上げるドル箱になり、ヴィンスは世界中のプロレス興行を新しいステージへと導いたのです。
炸裂!悪のオーナーは戦い続ける
1990年代になると、手強いライバルWCWが出現します。ライバル達に対抗するために、ヴィンスはWWFのイメージを再び一新しました。
これまでのファミリー路線から大人向けに、試合を盛り上げる「筋書き」もよりハードなものにしたのです。
この変更は、80年代のプロレスブームを支えていた観客達が成長して大人になったため、彼らが観たくなるような試合にするためでもありました。
悪のオーナー、全米を制覇
新路線では、レスラー達全員がより攻撃的に反抗心をむき出しにするようなスタイルになっていきます。また、ヴィンス自身もこの試合の「筋書き」に登場しました。
最初は、悪役のアナウンサーとして試合を煽り、後には悪役レスラーとしてリング上で派手に悪役を演じてみせました。自らを「悪のオーナー」と名乗ったのです。
次に、ヴィンスは他のライバルのプロレス団体を買収していきます。最初にかつての強敵、WCWを、その後破産したECWを買収しました。WWFは北米のプロレス興行を独占するようになったのです。
その実態は敏腕ビジネスマン
1999年10月、WWFは株式をNASDAQで公開し、1年後にはニューヨーク株式市場に上場します。ヴィンスの持ち株は57%を占め、その額は7億2600万ドルになりました。ヴィンスは一躍、億万長者の仲間入りをしたのです。
2002年、WWFは、長年にわたるWWF(世界自然保護基金)との名称を巡る裁判に敗れ、団体名をWWEへと改称しました。
闘魂!プロレス魂は死なず
こうしてプロレス業界のトップに躍り出たヴィンスですが、一方で、所属していたレスラー達への薬物問題、試合最中のレスラーの死亡事故など様々な問題にも直面します。そのため、多くの批判を浴びることもしばしばありました。
ヴィンスはこうした壁にぶちあたっても、世間が自分に対して持つ悪いイメージですら試合のネタにして、レスラーとして経営者として走り続けます。
新たなプロレスビジネス
80年代や90年代のようなブームはなくなり、主だったスター選手も亡くなったり、引退したりして、WWEは以前のようには稼げなくなってきました。
2011年、ヴィンスは、新たにWWEネットワークというネットで動画を配信するサービスの開始を発表しました。昔の名試合や試合のライブ中継などを楽しめるサービスです。このサービスで新たな顧客を増やそうとヴィンスは考えています。
まとめ:支えは家族との絆
地方の一興行団体から世界中で大人気の団体へとWWEを成長させたヴィンス。
リングでの悪のイメージや厳しい実業家の顔と裏腹に、家族思いの人物でもあります。そしてヴィンスの家族は家族ぐるみで、ビジネスにそしてリングの試合にも参加しました。
父親から受け継いだプロレスへの愛情と家族の支えが熾烈なヴィンスのビジネス人生を支えていたに違いありません。
「我々はいつも真っ当に扱われることなんかこれからもないだろう。それはこんな仕事には付き物なんだ。そしてそれを克服し、超えていかなければならない。そして知るべきなんだ。鏡を覗いてごらん。そこには仲間と家族が共にいてくれる。」
【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Vince_McMahon
http://www.celebritynetworth.com/articles/entertainment-articles/vince-mcmahons-father-told-work-wrestling-1-2-billion-later-vince-probably-glad-ignored-father/
http://www.canoe.ca/Slam/Wrestling/Bios/mcmahon-vince.html
http://www.biography.com/people/vince-mcmahon-9542235#continued-controversy
http://prowrestling.about.com/od/wrestlerprofiles/p/vinceprofile.htm
この人が「本当に」オーナーだったと知ったときは驚いた。
全盛期には娘のステファニー・マクマホンも登場してたよねw
こないだハルクホーガンが日本に来た時に観に行ったけど満員御礼状態だったし
ものすごい盛り上がってたよ、日本にまだアメプロファンがこんなにも居たのかと驚いた。
ビンスは化け物。
今もビンスが君臨してるからやれてる部分絶対あると思う。
WWEの問題はビンスが引退or亡くなった後。
この人、親父(シニア)と合わなかったんだよね。
っつか、先見の明があるというか革新的というか。旧態依然の関係者からはボロカス(馬場に一喝されたとか)だけど、結果を残してるからなぁ。