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野球の神様ベーブ・ルースの生涯を全力でまとめてみた。

2014/07/09
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Babe Ruth
(本名:George Herman Ruth, Jr.)

世界のレッドソックスを3度の優勝に導いた伝説の野球選手『ベーブ・ルース』
1916年には「14イニング無失点」という成績を残し、未だその記録は破られていない・・・。

数々の伝説

ベーブ・ルース(本名:ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア)は、1895年2月6日、メリーランド州ボルチモア南部のビッグタウン、エモリー通り216番地に生まれました。生涯のすべてを野球に捧げ、数々の伝説を残しました。

1.左投げ左打ちで、「野球の神様」と言われている。

2.最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人である。

3.本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手である。

4.1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。

5.生涯通算本塁打数714本も、1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。

6.野球を最大の人気スポーツに導いたことで、「アメリカ球界最大の巨人の1人」、「アメリカの国民的なヒーロー」と評されている。

警察官も手におえない・・・非行少年ルース

ベーブ・ルースは、ボルチモアの波止場にある、貧しい家庭に生まれました。ドイツ系移民であった母親のケイト・シャムベルガー・ルースと父親のジョージ・ハーマン・ルース・シニアは、居酒屋を経営しており、家族はその2階で暮らしていました。

母親が病弱な上に、父親は居酒屋の仕事で忙しかったために、ルースを含め、9人の兄弟姉妹の中で、幼少期を生き抜いたのは、ルースと5歳年下の妹だけでした。

そのような家庭環境の中で育ったルースは、7歳にして非行に走ります。

学校をさぼっては、造船所をうろついたり、お酒を飲んだりタバコを吸ったり・・・挙句の果てには警察官たちを冷やかす始末でした。

両親はもうお手上げ状態で、ついにはルースを全寮制の「セント・メアリー少年工業高校」というカトリックの更生施設兼孤児院に送りこみました。

その後、12年間過ごすことになったその高校で、一生父のように慕うことになったのが、教官を務めていたローマ・カトリック神父のブラザー・マシアス・バウトラーでした。

そうです。彼こそが、最初にルースに野球の仕方を教えてくれた一生涯の恩師なのです。

マシアス神父、ジャック・ダン氏との出会い

ブラザー・マシアス・バウトラー神父。ルースにとって神父はもはや「育ての親」でした。彼との出会いなしには、ベーブ・ルースは誕生しなかったでしょう。神父とルースのエピソードを少しお話しましょう。

・神父は休み時間でさえも、ルースに野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えていた。

・神父はルースに勉強や洋服の仕立て方も教えていた。(セント・メアリーでは、少年たちの未来のために様々な職業訓練を行っており、ルースは仕立屋になるための訓練を受けていた。)

・神父は大変な美男で、身長約198cm、体重113kgと大男だったため、俳優としてでも活躍できるのではないかという美貌の持ち主だった。

ルースは初めて神父に対面した瞬間から、それまでに経験したことのない威圧感と畏怖の念を覚えたらしい。

・神父はバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であった。

・当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20~30人ほどの神父が少年たちの教官を務めていたが、その中でもマシアス神父ほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったようだ。

・のちに神父は、セント・メアリーの校長に昇格している。

・ルースは、歩くときに内股にして足を引きずる癖があったが、これはマシアス神父の癖を真似たもので、その癖は生涯治らなかった。それほど神父を尊敬していた。

・ルースの父は、ルースが23歳の時に、自身が経営していた居酒屋で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。母親が亡くなった時には非常に悲しんだそうだが、父親とは疎遠だったために、亡くなった時もそれほど悲しんだ様子はなかったようだ。

元々居酒屋で働きづめだった父親とはあまり顔を合わせることもなく、7歳の時からセント・メアリーで、その父よりも長い期間をマシアス神父と共に過ごしたルースにとっては、マシアス神父こそが父親のような存在だった。


セント・メアリー野球チームでエースを務めたルース(後列左)
画像【http://shigekeura.exblog.jp/17203587/】

マシアス神父の指導により類まれなる野球の才能を生み出したルースでしたが、そこで、彼の素晴らしいピッチングに目を惹いたのがマイナーリーグ「ボルチモア・オリオールズ」オーナーのジャック・ダン氏でした。

その当時、オリオールズでは、選手たちを、メジャーリーグ「ボストン・レッドソックス」に入団するべく訓練をしていました。そんな中ダン氏は、ルースに一目惚れし、かなり見込みのある選手の一人だと確信していました。

1914年2月14日。わずか19歳にして、ルースはプロ野球選手としてダン氏の元、契約をすることとなります。

ダン氏は、たった30分ほどルースの練習風景を見ただけで、即座に年給600ドル(現在の価値に換算すると約660万円)の契約を結んだと言います。

15歳の頃に母親を結核で亡くしており、父親とは疎遠になっていたことから、法的な保護者のサインは、ダン氏が引き受けることになりました。

そのことで、オリオールズのチームメイトからは「ダンの新しいベイビー(babe)」だと冗談で言われるようになったそうです。そうです。その瞬間からルースのニックネームは「ベーブ・ルース」になったのです。

ちなみに身長は188cmと、プロにしては平均的でした。デビュー戦の7月11日には、初登板初勝利を記録しました。

その年の4試合は投手としてマウンドに登ったルースでしたが、当時のレッドソックスにはスター選手が多かったことから、ほとんどの試合において、登板機会が与えらえず、マイナーへ降格されました。

1914年10月17日、ボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚します。それから約5年間、ルースは投手として大活躍をし、レッドソックスを3度の優勝に導くなどして中心的プレーヤーとなりました。

特に1916年の「14イニング無失点」、1917年には、24勝13敗・防御率2.01、6完封に打率.325と素晴らしい成績を残しました。1918年も20試合投げ、この年以降ルースは主に外野手として起用されました。


レッドソックス時代のルース
画像【http://www.bing.com/images/search?q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9&form=DLCMHP&qs=n&sk=&mkt=ja-jp#view=detail&id=EB65EFAD25392C7F40F90FF5B4CD1887FBBE160C&selectedIndex=4】

「バンビーノの呪い」・・ニューヨーク・ヤンキースへの移籍劇

1919年、悲劇は起こります。レッドソックスのオーナー、ハリー・フレイジー氏が自身の借金を抱え、財政難に立ち向かうことになります。

1919年12月、フレイジー氏は、ニューヨーク・ヤンキースに当時では目覚ましい破格の10万ドル(約1,000万円)でルースを売却するに至りました。

レッドソックスにとっては当然ルースの移籍が痛手で、その後2004年にワールド・シリーズで優勝するまでは負け続きの暗い道を歩むことになりました。

これがジンクスとなり、この「失敗トレード」のことを、のちにスポーツメディアは、「バンビーノの呪い」と揶揄し、世間に広めました。

ニューヨーク・ヤンキースにとっては、まさに収穫でした。ルースの入籍後、15シーズンを通してワールド・シリーズ4タイトルを勝ち取り、勝利の独占を続けました。ルースは、レギュラーの外野手となり、成功の中心的プレーヤーとなりました。

そんなルースですが、1916年当時のすらりとしたアスリートらしい姿から、現在でもよく知られる通りの丸々と太った体型に変化していました。

このような酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えましたが、2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかったようです。

タイ・カップも後年、ルースのことを、「太っている割には走るのが速かった」と述べています。

1920年 ヤンキース時代のルース(左)とタイ・カップ(右)
画像【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9】

恐るべし!記録破りのベーブ・ルース!!

・1919年(レッドソックス時代)29本塁打

・1920年(以下ニューヨーク・ヤンキース時代)ニューヨーク・ヤンキースデビュー年にして54本塁打 前年度に29本塁打を記録していたため、ここまでの記録は誰もが予測していなかった。

実際に54本塁打というのは異常な数値で、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。

・1921年 打率378、59本塁打 この年、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。

7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われた。

・1927年 51試合出場で、その後34年間保持することになる60本塁打に加え、打率356、164打点、長打率.772 4度目の本塁打記録更新となる。

この年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれていた。

ワールド・シリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事にシーズンを終えた。また、1923年に建てられたヤンキースタジアムは、この頃から「ルースが建てた家」と呼ばれるようになった。


「ストライク・アウトなんて恐れちゃダメだ!」Byベーブ・ルース
画像【http://www.bing.com/images/search?q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9&form=DLCMHP&qs=n&sk=&mkt=ja-jp#view=detail&id=164850F75A09389A3C6787E754BC2AD5A84FC982&selectedIndex=5】

華やかな生活から衰退にいたるまで・・・

ルースの成功劇は、まさに世界大恐慌前の貪欲なアメリカの生活様式にまさにマッチしていたといえます。彼の贅沢な食生活、アルコールや女性まみれの生活など桁外れの生活水準はまさに、彼の数々の功績と共に伝説ともなっています。

しかし、このような彼の華やかな私生活の悪評こそが、引退後、チームのマネージャーへの道から遠ざけてしまいました。それを良い例に、妻のヘレン・ウッドフォードもその贅沢三昧の生活に我慢できずに1926年頃から別居を始めたそうです。

1935年、40歳。ルースはこの頃から選手として終わりが近づいていることを悟っていました。2月26日、ヤンキースはルースをブレーブスにトレードしました。

またこのトレードにおいて、ルースは選手としてだけでなく、チームの副代表として選手の獲得や人事に関する権限を握ることになりました。ブレーブス監督ビル・マケシュニーに使える助監督にも就任しました。

メディアが注目する中、ルースは本拠地としてのボストンに16年振りに帰ってきました。ニューヨーク・ジャイアンツとの開幕戦には2万5,000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利します。

ルースは全得点に絡む大活躍を見せました。しかし、それ以降チームは低迷することになります。

1935年5月25日、ペンシルバニア州ピッツバーグ、フォーブス・フィールドにて、体重も増加し、衰退しかけていたルースは最後の力を振り絞り、3本のホームランを打ち、ファンに「伝説のベーブ・ルース」を見せつけます。

試合は7-11で敗戦しましたが、現役最後の本塁打となった一本は、フォーブス・フィールドの場外に消える特大アーチとなりました。

6月1日、ジャイアンツ戦が終わった後のルースは、新聞記者をロッカールームに集めて、現役引退を表明しました。その5日後、5月30日ルースは正式に引退することになりました。

1938年、ブルックリン・ドジャーズのゼネラル・マネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、ドジャーズの一塁コーチに就任します。しかし、わずか1年で辞任してしまい、これがMLBにおけるルース最後の仕事となりました。

寛大な選手としても有名だったルースは、その後チャリティイベントなどを開催したり参加することに多大なる時間を費やしました。

1948年6月13日、彼は、ヤンキースタジアム開場25周年記念祝典に参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号「3」が永久欠番に指定されることになりました。

その日彼は、当時存命していた1923年当時のヤンキースメンバーとのしばしの再会を楽しんだと言います。

ガンを患っていた体は見た目も弱っており、以前の社交的なルースではもはやなくなっていました。バットを握ることもできなかったほどです。

この時撮られた写真は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、これによってカメラマンはピューリッツァー賞を受賞しています。

1948年6月13日 ピューリッツァー賞を受賞したベーブ・ルースの写真
ヤンキースタジアム開場25周年記念祝典にて
画像【http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC%E8%B3%9E+%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D218】

それから約2か月後の1948年8月16日、恵まれない子供たちのためのベーブ・ルース財団に多額の財産を遺し、この世を去ります。

彼は、2番目の妻クレアと、二人の養女ドロシー、ジュリアに見守れながら安らかに息を引きとりました。享年53歳と早すぎる死でした。

現在でも献花が絶えないルースの墓
画像【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9】

伝説のベーブ・ルースが来日!!

さて、これまで紹介してきたベーブ・ルースの人生でしたが、実はそんなルース、1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として来日しています。

飛行機の移動が一般的でなかったその当時、長い船旅で日本へ渡ったそうです。

日本に向かう船の上でも、人一倍練習に打ち込んだり、来日後も雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のやる気とスポーツマンシップを見せてくれました。そして、その意気込みこそが、日本の野球人気を根付かせるきっかけともなりました。

来日歓迎パレードでは、大勢の日本人がアメリカのワールド・シリーズで優勝したとき以上のものがあったため、ルースは大変喜んでいたと言います。

来日の印象を、「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。」などとコメントし、真珠湾攻撃などにより、反日感情を持った自分を後悔し、戦争の悪意と平和の大事さを改めて感じたきっかけになったそうです。

1934年 日本の少年たちとベーブ・ルース(中央)
画像【http://10251895.at.webry.info/200811/article_5.html】

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