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整備工から世界的な自動車企業のオーナーに:クライスラー創業者、ウォルター・クライスラー

2014/11/26
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ニューヨークに観光に訪れた人なら必ず訪れる、アールデコの美しいビル、クライスラービル。今回のサクセスストーリーの主人公、ウォルター・クライスラーが建てたビルです。

クライスラーは工場の床拭きからスタートして、アメリカ3大自動車会社の一つ、クライスラー社の創業者になりました。いったいどんな人物なのでしょうか。

貧しい鉄道技師の息子に生まれて

ウォルター・パーシー・クライスラーは1875年、カンザス州の鉄道技師の一家に生まれました。子供の頃から父の仕事に関心があったクライスラーは、父の職場の工場を遊び場に育ちます。

高校卒業後、クライスラーは工場に就職します。

最初は床拭きの仕事でした。地味な清掃の仕事に熱心に励んでいたクライスラーは、すぐに整備工主任の目に留まり、整備工見習いになりました。

新天地を目指して

見習いとして働き始めたクライスラーは、みるみるうちに頭角を現していきます。熟練の整備工たちから技術を学び、機械工学や電気工学についても独学で勉強を続けました。

見習いも終わりに近づいた頃、より技術の腕前を磨こうと違う場所で働くことを決意します。

1897年、22歳になったクライスラーは新天地を目指し、故郷を旅立っていきました。

放浪する天才技術者

クライスラーは中西部各地の鉄道会社を転々としながら、新しい仕事にチャレンジし続けました。彼は勉強熱心でずば抜けた知識を持っているだけでなく、その知識を仕事に活かすことができる男でした。

ある鉄道会社で整備工として働き始めたクライスラーは、機関車整備に必要な時間を短縮するなど業績を上げて、すぐに主任に抜擢されました。

そんな「できる」整備工の評判を聞きつけた他社が、更に高い給料と地位をオファーし、クライスラーはさらに昇進していきます。

そして、最後にはシカゴの鉄道会社で機関車部門の最高責任者に就任しました。34歳にして何千人もの労働者を監督する立場にたったのです。

運命の出会い。自動車に一目惚れ

1908年、クライスラーに運命の出会いが訪れます。モーターショーを訪れたクライスラーは、展示されていた魅惑的なマシン、自動車に目が釘付けになります。まさに一目ぼれでした。

「4日間、ショーに通いつめました。自動車にすっかり取りつかれてしまったのです。」

自動車は高価な玩具

クライスラーはどうしても自動車が欲しいと思いました。けれど、当時自動車は高額で、とても庶民が買うものではありません。

そこでクライスラーは借金をして自動車を購入しました。

自動車を買ったクライスラーでしたが、その自動車に乗ることはありませんでした。自動車を納屋に置くと、まず最初に分解し、徹底的に仕組みを学びました。そして、再び組み立てたのです。

しばらくの間、彼はその「高価で新しい玩具」に夢中になって過ごしたのです。

さらば!鉄道業界

当時のクライスラーの暮らしは恵まれたものでした。しかし、クライスラーは知っていました。どんなに優秀でも、この会社では技術者はトップに立てないことを。

野心家の彼はそれを不満に思っていました。

そんな頃、会社に新しいトップが就任します。このトップは気難しい人物で、クライスラーはさらにハードワークを強いられるようになります。

ある日、いきなり真夜中に「明朝、オフィスに来るように」という命令を受けます。いざ出向くと、クライスラーにとっては些細だと思われる問題で詰問されたのです。頭にきたクライスラーは、その場で会社のバッチを投げ捨て、オフィスを出ていきました。

「こんなふうに、私は鉄道業界におさらばしたんだ。」

自動車業界でも大活躍

会社を辞めたクライスラーは古い友人を頼り、機関車を製造していたアメリカン・ロコモティブ(ALCO)社に就職します。

やがて工場のマネジャーに昇進したクライスラーの元に、ジェネラル・モーターズ(GM)の社長、チャールズ・ナッシュから自動車業界で働かないかと誘いがきました。

ナッシュは、効率の良い生産システムを作る際に見せたクライスラーの天才的な手腕の評判を聞き、ぜひ自動車業界で働いてほしいと思ったのです。そして、彼を説得して、ビュイック(GMが製造する自動車のブランド)を生産していた工場の工場長に就任させました。

給料は半減。それでもできる男は成果を出す

当時、GMは破産寸前だったため、クライスラーの給料はALCOでの給料の半分しかありませんでした。

しかしながら、クライスラーは引き受けた仕事はやる男です。マシンに関する知識を総動員し、それまでの生産システムでの経験を活かしながら、工場の改革に取り組みました。

当時のビュイックの工場は、職人がゆっくりと手作りで自動車を生産するといった時代遅れのシステムでした。

クライスラーは、生産ラインを見直し、かかり過ぎていた日数をカットするなどし、一日45台しか生産されていなかったところを、一日75台、やがて200台へと台数を伸ばしていったのです。

GMの利益も劇的に上昇しました。

1916年、GMの創業者で再び社長の地位に返り咲いたウィリアム・デュラントはクライスラーをビュイックの社長に指名します。最初年俸6000ドルだったクライスラーの給料は、50万ドルにまでアップしました。

GMを退社

その後の4年間もクライスラーはGM社の利益向上に貢献します。しかしながら、クライスラーとデュラントは全く異なる考え方の持ち主でした。

クライスラーは、デュラントの干渉に次第に苛立ちを募らせるようになります。

そして、新工場の買収を巡るデュラントの経営上の判断を承服できなかった彼は、1920年GM社を退社しました。クライスラー、45歳の時でした。

クライスラー社の誕生

GM社を辞めたクライスラーの元に、Willys-Overland社という破産寸前の会社を立て直す仕事の依頼がきます。彼は、高性能の自動車を安く提供するという計画を実現させ、会社を見事に再建させました。

その後、また別のMaxwell Motor社の再建を依頼されます。クライスラーは、優秀な技術者達を呼び寄せ、自らプロデュースした新しい自動車を完成させました。この自動車は大人気となり、会社は資金を得ることができました。

1925年、Maxwell社は、社名をクライスラー社と改め、クライスラーは社長に就任します。

ビッグスリーの仲間入り

1920年代に訪れた自動車ブームのせいもあり自動車の販売は好調で、クライスラーは新たに同業他社を買収して、会社を拡張していきます。そしてついに、クライスラー社は、「ビッグスリー」と呼ばれるアメリカ3大自動車会社の一つとなったのです。

1935年、クライスラーは、会長として非常勤のみで働くようになります。そして1940年、8月ニューヨークで亡くなりました。

まとめ

会社が3大自動車会社になった頃、クライスラーはニューヨークのマンハッタンに当時世界で最も高いビルを建設します。それは、工場労働者から世界的な企業のトップに上り詰めた彼の象徴でもありました。

クライスラーの成功の秘訣は何でしょうか。それは彼があらゆる経験から学び続けたことです。

長い間、工場の現場で働き続けた彼は、工場での仕事や労働者達の気持ちを知り抜いていました。野心の階段を登り続ける彼に、優秀な技術者達が付いてきたのもそのためです。現場を知る心と飽くなき探求心で身に着けた知識。それが彼の最大の武器でした。

【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Chrysler
http://www.kshs.org/kansapedia/walter-p-chrysler/12015
http://www.answers.com/topic/walter-chrysler
http://www.chryslerboyhoodhome.com/history.asp
http://www.encyclopedia.com/topic/Walter_Percy_Chrysler.aspx
https://www.chryslerclub.org/walterp.html
http://www.chryslergroupllc.com/company/Heritage/Heritage%20Documents/Chrysler%20Heritage%201900/Chrysler%20History%20-%20Walter%20P.%20Chrysler.pdf

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この記事に対するコメント
  1. より:

    盛者必衰というし、トヨタも落ちぶれるのかな

  2. 日本の名無しさん より:

    創業者は凄いけど、その人の影響力が無くなれば、
    ただの烏合の衆と化してグダグダ……ってのはよくある話

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