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张 朝阳 Charls 中国検索エンジンNo.2の創業者とは?

2014/09/21
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今や6億人を超えるとも言われる中国のインターネット利用者。その検索エンジンNo1が百度(バイドゥ)No2がSohuです。

ここ2,30年で飛躍的に成長したIT業界。中国IT業界の先陣を行く人物の一人、Sohuの創業者张 朝阳とはいったいどんな人物でしょうか?

大志を持った少年

中国陝西省西安市出身の彼は1981年、西安から北京の理数系名門、清華大学物理学系に合格します。

子供の頃から落ち着きがなく、空想好き、遅れを取るのは大嫌い、どんなことにも好奇心旺盛な少年でした。

絵を習い、飛行機の模型を作成し、二胡を習い、特に好きだったのは、中国の伝記歴史小説「水滸伝」。本を読むのが大好きでした。たくさん勉強して、人より上にーと子供ながら考えていたのです。

中学時代の彼の夢は物理学者になること。ノーベル賞を受賞してこそ、大きな事業を興すことができると考えます。

これが動機付けとなり、難関かつ名門の清華大学へ入学できたのです。さらに、卒業時には奨学金を得、アメリカマサチューセッツ工科大学[MIT]へ留学。

インターネットに触発されて

1993年、物理学の学位を修めた彼は急に、何年も学んできた物理は自分には向かないのではないかと考えます。

物理学の実験中感じたのです、`自分は何かを操作したい、結果を重視する。理論を並べ立てて100年かけて実証される物理学は遠すぎる‘

同時に、中国とのビジネスチャンスが大きいことも感じ取ります。

幸いにもこの時彼は、大学でアジア地区中国連絡官の勤めを任されており、アメリカ・中国間の頻繁な行き来が可能だったのです。

1995年7月、国に戻って起業したいとの思いが非常に強くなります。アメリカではここかしこで、IT業での起業が見られます。ソーシャルネットサービス[SNS]がビジネスとして、また社会的にも大きな可能性を秘めていることを確信したのです。

起業決意

アメリカのISI社に商談を持ちかけます。中国にインターネットをつなげたい、中国経済の情報の発信と収集、アメリカの中国人また中国に関心を持つ人々のためのサービスを提供したいと。

当時ISIの社長も張阳朝と同じ考えでした。商談はすぐにまとまり、彼は100万米ドルの投資を取り付けます。

こうして彼は7年滞在したアメリカを離れ、1995年末、ISI中国駐在最高責任者の立場で、インターネットを通じアメリカ・ウォール街への情報発信を開始。同時にさまざまな金融情報を収集していったのです。

SOHU設立

ISIでの仕事は1年間のみ。しかしこの間に、中国でのインターネット市場に巨大な可能性を見て取ります。

1996年7月、自身で起業するための資本金集めを開始。3ヶ月に渡って、中国、ニューヨーク、ボストンを行き来します。

しかし、アメリカの投資家たちは誰も遥か遠い中国の起業者を、全く信じようとはしません。電話でアポを取っては、事務所に出向き商談を持ちかけます。

事務所から追い出される苦い経験もありました。しかし彼は諦めません。

ようやく`デジタル化生き残り‘の著者であり、IT企業メディア実験室主任を勤めていた人物より、投資を取り付けることができました。そしてさらに、二人の比較的興味を抱いた投資家の支持を取り付けることができたのです。

彼は振り返ってこう語っています。

長い時間がかかった後に、やっとのことで3人の投資家を得ることができた。既に自分は、相当痛めつけられていた。

自分は若く勢いにのって打ち込んでいた。きっとこの3人も、その成功への欲を見てとって自分にチャンスをくれたのだと思う。

実際のところ、マサチューセッツ工科大学の教授の助けがあって、やっとこのリスクの高い投資を得ることができた

と。

1996年8月、ITC愛特信電子技術公司(北京)有限会社が正式に発足します。しかしこの時、何から行うかはまだ決まっていませんでした。

ファイアフォール開発?
地元企業のサイト作成?

2ヶ月に渡り情報収集を続け、やはりサイトを立ち上げようと決めます。当時はまだサイトの概念もはっきりしたものではありませんでした。

そんな中、北京電信局のサービスサイトを構築します。そしてこれが中国初のビジネスサイトでもあったのです。

生き残りのために

張阳朝の投資家の一人は、アメリカ国内のSNSサイトへも投資しており、その投資先が、ネット広告をビジネスにした企業でもありました。彼も大きく触発されます。

アメリカへ渡り、`リンク‘させるシステムを目にします。その会社では自社で多くの記者を雇い、大量の記事を執筆、発信していました。

しかし実際にはコストがかかりすぎ、自分のところのような中小企業には無理だと感じます。

何かいい方法はないだろうか?当時中国のネット上には、サービス的な紹介はあったものの、広範囲なリンクではありませんでした。彼は試してみます。いける!

自身で多くのページ、記事を作らなくても、リンクできればいいのです。こうして12人の従業員の彼の会社から後の中国検索エンジンNo2`SOHO‘の前身が誕生。

創業の難しさ、厳しさー 彼にとってそれは始まりの時ではなく、次なる出資者を募る時でした。

ウォール街の顔色

もし一回目の投資家集めが、彼個人への信頼と情によるものであったとすれば、2回目にそれは期待できません。一回目でも`ひどく痛めつけられた‘と感じた彼ですが、さらに2回目の資本集めに走ります。

自社内で協力してくれる人はおらず、彼が何をしているのかさえ知られていませんでした。

1997年後半のことです。当時世界的に見ても、SNSはまださほど流行っておらず、Yahooも株式市場に上場していない頃です。まして中国からやってきたIT企業が何をするというのでしょうか。

中国への投資自体、当時のアメリカ人にとってさほど魅力的でないように、張阳朝には見受けられました。大学時代の教授の助けの下、カリフォルニア州の億万長者たちのもとへ出資者を募っていることを持ちかけます。

1997年9月11日ー彼はこの日付をしっかり記憶しています。リスクの大きな投資計画を4人の富豪に持ちかけたのです。インテル・センチェリーファイナンス・ソフトバンク・そして某億万長者投資家。

全てに面会することができ、全てから前向きな返答を得ることができました。

インテルからは、その後半年に及ぶ調査を受けることになりますが、総計210万アメリカドルの投資を取り付けることができたのです。

当時、海外から巨額の投資を得るというのは希な方法でした。彼は今でもこう思っています。

`この資本があったからこそ、現在に見る中国市場のインターネット普及、SNSの流行に至った‘と。

チャンス

大きな投資契約を得ることができたものの、実際にはまだ彼の手元に、ネット広告収入はありませんでした。この時彼は起業当時からのふたりの従業員を事務所に呼びます。

`給料を一ヶ月待ってもらってもいいか‘と相談。海外に渡り有力投資家の同意を得るに至ったものの、現状は事務所の家賃も支払えるかどうかの状況だったのです。

年末、チャンスがやってきます。北京電信社が169項目に及ぶ専門サイトの構築を計画。彼はこの機会を手に入れます。

しかしこの時、これとは別に何万元になる広告収入に結びつくサイト構築を始めていました。もし失敗したら、会社の唯一の収入源を失うことになってしまいます。

株主会の席で協議します。その結果、失敗したら彼個人が責任を負うということで話がまとまり、株主会より10万アメリカドルの支援を受けて、大きな二つのプロジェクトに取り掛かったのです。

1998年2月すべて中国語の検索エンジンSOHUが誕生。
1998年9月上海に支店設立。
1999年6月広州支店設立。
2000年アメリカ・ナスダック市場上場。中国最大若者向けSNSサイト経営。

現在、彼の構築したSOHUは中国NO2検索エンジンとなり、彼は富豪の仲間入りを果たします。

まとめ

頭脳明晰な張阳朝。しかし彼の成功への道は並大抵のものではありません。

具体的なビジョンがないまま、巨額の投資を募るーどうしてそんなことができるのだろう?と思ってしまいそうですが、そこは彼の非常に強い意志と自信と野望があったからでしょう。

絶えず変化するIT市場。彼の挑戦はまだまだ続きます。

【参考URL】http://baike.baidu.com/subview/16369/5476515.htm?fr=aladdin
http://news.icycn.com/201110/2145155_2.html
http://www.chinaz.com/news/2011/1021/215119.shtml

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この記事に対するコメント
  1. 日本の名無しさん より:

    支那のインターネットって検閲まみれだから、中共の情報統制に協力的な奴しか生き残れねえだろうな
    googleなんてもっての外だと思うよ

  2. 日本の名無しさん より:

    平然と簡体字を使うのやめてくれ、日本語ではない

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