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世界で初めてテレビ制作会社の女社長となったルシル・ボール

2014/07/18
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ルシル・ボールという女性をご存じですか?このルシル・ボールは、アメリカで成功した女性の1人です。アメリカを代表する女性コメディアンだったのです。

1911年、ルシル・ボールはニューヨークで生まれました。ルシルは、コメディアンになる前には歌手、モデル、映画女優としてスートします。下積みを経て、彼女はアメリカの一大コメディアンとなるのです。

今日はルシル・ボールについてご紹介し、彼女がどのように成功した人生を手に入れたのか、少し見ていきましょう。

ルシル・ボールの生い立ち

1911年8月6日、ルシルはニューヨークのジェームスタウンで生まれました。2人きょうだいの長女のルシルの子ども時代は、後のコメディアンとしてスターになった彼女からは想像できないものでした。ルシルの家庭は裕福ではなかったのです。

またそれに加えて悲しい出来事もありました。そのため彼女の子ども時代は、子どもには過酷なものだったと言えます。

ルシルの父ヘンリーは電気技師でした。ルシルが生まれて間もなく、父ヘンリーの仕事の都合で、家族みんなでモンタナに引っ越すこととなります。

モンタナの次はミシガンへと引っ越します。ここで父はミシガンベルカンパニーで電気配線工の職に就きます。

父の死と貧困な子ども時代

ここまでは、確かに引っ越しは伴いましたが、家族が幸せに暮らしているかに思えました。

ですが、悲劇は突然起こります。1915年2月、父ヘンリーが腸チフスにかかり、亡くなってしまったのです。この当時ルシルは3歳。ルシルにとって、お父さんの記憶はたった3年しかなかったのです。

父の死は、子どもだったルシルの心に重くのしかかるものでした。その記憶は、まだ幼いルシルにとって、決して消えない重いものとなったのです。

「何が起こったか、全て覚えています。窓にもたれて、はしかにかかってしまったお隣さんの子どもたちと遊びたいって、ダダをこねていました。

お医者さんが来て、ママは泣いていました。窓に向かって1羽の鳥が飛んできたんです。壁に当たって落ちていってしまいましたけれど」

この当時、母のデジレはルシルの弟を妊娠していました。ですが夫の死を受け、ルシルを連れて元のジェームスタウンに戻ったのです。ここで工場での仕事と、新しい夫を手に入れます。

ですが、この新しい父親が子ども嫌いだったのです。せっかくジェームスタウンに戻ったのに、新しい父親とルシルの母親は、デトロイトに行ってしまいました。子どもだったルシルを置いて。

結局ルシルらは新しい父親の父母と共に住むことになったのですが、この家庭も貧しい家庭でした。学校の鉛筆を買うお金すらないような貧乏だったと、後にルシルは語っています。

何か大きなことを成し遂げたい!

ルシルが11歳になったとき、母親と新しい父親がようやくジェームスタウンに戻ってきたため、母親と再会することができました。その頃から、ルシルは何か大きなことをしたいと考えていました。

ルシルが15歳になったとき、母親にあるお願いをします。それは、ニューヨークの演劇学校に入学するというものです。このようなお願いをしてみたものの、ルシルは恥ずかしがり屋で、人の注目を集めるのが苦手でした。

「10代の私は、いつも口ごもっているような女の子でした。学校のスター生徒ベティ・デイヴィスに憧れていたのです」

こうルシルは語ります。結局演劇学校から「彼女は学校になじまない」という通知が来てしまいます。

モデル、そしてハリウッドへ

学校をやめたルシルはモデルの仕事も始めます。1930年台初めには、もっと役者の仕事をしてみたくてハリウッドに引っ越します。なんと仕事はすぐに見つかりました。スタントやエキストラなど、ルシルは精力的にこなしていきます。

ルシルは生涯で72本の映画に出演したのですが、1949年台に『The Queen of B Movies』というタイトルの映画に出演する機会に恵まれます。

ここでルシルはハンサムなキューバ人のバンドリーダー、デジ・アーナズに出会います。2人はルシルの次の映画『Too Many Girls』で共演します。1年もたたないうちに、2人は恋人同士になり、結婚します。

ハンサムな男性と結婚へ

ルシルは思慮深く、キャリア志向の女性でした。そんなルシルは、それまでは落ち着いた年上の男性と付き合ってきました。

デジ・アーナズは全く別のタイプの男性でした。情熱的で若く(出会った当初は23歳でした)、また女好きとしても知られるハンサムな男性でした。周りの友人たちは、このカップルは1年と持たないだろうと予想していました。

ですが、周りの予想に反してルシルはアーナズに夢中になっていました。2人は20年連れ添うことになりましたが、アナーズはルシルの仕事の夢を叶えようと、彼女をサポートする良き夫でした。

ラジオコメディでブレイク

1940年台後半になっても、ルシルは今一つブレイクしきれていませんでした。ですが、トップスターになることは、ずっと憧れ続けてきました。

そのときアーナズはルシルに、放送業界に挑戦することを勧めます。すると間もなくルシルは、ラジオコメディの『My Favorite Husband』で重要な役どころを努めることとなったのです。

このドラマで、CBS放送(アメリカ最大のテレビ・ラジオ・ネットワークを有する放送局)の役員はルシルに注目することになります。そこでルシルに、もっと小規模で作品を作ってみないかと持ちかけました。

するとルシルは、現実の夫アーナズも出演させるよう要求したのです。なかなかこれは受け入れられる提案ではなく、ルシルはCBSのオファーを断ります。

そして、アーナズと2人で、ボードビルで演じます。この2人の演劇は成功し、なんとCBSとの契約に成功したのです。

“I Love Lucy” で大ブレイク

1951年10月15日に、ルシル・ボールと夫のデジ・アーナズが出演する“I Love Lucy(アイ・ラブ・ルーシー)”は、ついにテレビデビューを果たします。

放送されるとすぐに、視聴者はこの番組が今までにないシチュエーション・コメディだと感じ、大人気に。このシチュエーション・コメディは、家族の暮らしをコメディ化したもので、ルシル自身が「ルーシー」を演じています。

演劇学校に行き、スターにあこがれながらも冴えない学生だったルシル。あの当時彼女にこれほどの才能があると誰が思っていたでしょうか。しかも、引っ込み思案だったルシルがコメディを演じているのです。

この時点では、タイトル通り、ルシルは国民的大スターになっていました。大変な激務であったにもかかわらず、ルシルは完璧主義でした。全て作り込み、アドリブが飛び出すことはめったにありませんでした。

その努力と諦めない姿勢の結果、“I Love Lucy” はナンバーワンコメディになったのです。

経営者としてのルシル

1960年にアーナズとは離婚するのですが、2年後には再婚し、業界で初めてのテレビ制作会社の女社長となります。経営者としても敏腕をふるうことになったのです。

その後も経営者として、役者として、活躍を続けます。

I Love Lucy の頃には、エピソードごとに当時2000~3000米ドルの収入を得ており、その後もたった2日間で10,000米ドル稼いだこともありました。

ルーシーシリーズの後半、Life with Lucy の頃には、エピソードごとに150,000米ドルを稼ぐほどになっていました。

貧しい生活、父の死、母と離れた生活、スターへの憧れ… 挫折を繰り返しながらも、成功を手に入れたルシル・ボール。彼女の笑顔の裏側には強い意志が見られます。

【参考URL】http://www.biography.com/people/lucille-ball-9196958?page=2#awesm=~oEqaWS5WXFd44O
http://www.imdb.com/name/nm0000840/bio

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