高校中退で糖尿病という持病を持つ52歳のセールスマンがまたたくまに成功者となり、世界的企業を築き上げるというのは、まずありそうもないサクセスストーリーに思えます。
しかし、このアメリカンドリームを実現した人物がいます。ファーストチェーン店マクドナルドの創業者レイ・クロックです。
創業まで
1902年イリノイ州シカゴ郊外のオークパークに生まれたレイ・クロックは、第一次世界大戦中に1917年、高校を中退して赤十字の救急車の運転手に志願します。
配属された衛生隊には、ウォルト・ディズニーがいました。ディズニーはフランスで軍のために働きましたが、クロックはアメリカにとどまったまま終戦を迎えています。
戦後は紙コップのセールスマン、ピアニスト、ジャズ演奏家、バンドメンバーなど職を転々とします。
マルチミキサーを使うと5種類のミルクセーキがあっというまにできるのに感心したクロックは、マルチミキサーのセールスマンとして全米をまわることになります。しかし、安い値段のライバル機が登場し、マルチミキサーの売れ行きに陰りがでてきました。
マクドナルド兄弟との出会い
そんな中、1954年に8台ものミキサーを注文した店がありました。カリフォルニア州サンバーナーディーノでハンバーガー店を営むマクドナルド兄弟でした。
店が提供しているのはハンバーガー、ポテト、飲み物だけでしたが、調理システムはたいへん効率化されたもので、最低価格ですべての製品を提供できる体制を作り出していたのです。
クロックはすぐさま、兄弟の調理システムを生かしたフランチャイズ店を全米で展開することを思いつきます。
アメリカでは、第二次大戦の退役軍人の帰国後、出生率が上昇していました。戦後生まれのいわゆるベビーブーマーと呼ばれる子供達をもつ家庭を引き込むことができるフランチャイズ店を作れば成功すると考えたのです。
「私は52歳でした。糖尿病の症状がではじめていましたし、フランチャイズ展開を始めたころには胆嚢と甲状腺のほとんどをなくしてしまいましたが、最高のことが自分の人生に起こるのはこれからだと確信していました」
と後に語っています。
8台のマルチミキサーを設置し、安定したキャッシュを産むフランチャイズ店という構想を兄弟に話します。
クロックは兄弟の店には干渉することはなく、フランチャイズ店の開設と経営を担当して、全フランチャイズ店からの年間売り上げの0.5%を兄弟に支払うということで話はまとまりました。
創業~権限委譲~株式公開へ
翌1955年3月、クロックはマクドナルドシステムズ会社を設立します。4月には直営第一号店をシカゴにオープン、1958年には1億個のハンバーガーを売り上げていました。
1960年には社名をマクドナルドコーポレーションに変更、1961年にはマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買い取ります。クロックにとってこの資金を集めるのは用意ではありませんでしたが、プリンストン大学など、多数の投資者を集めて調達しました。
1983年にはハンバーガーの売り上げ数累計10億個を超えました。同じ年に500店舗目の店が開設し、マクドナルドのシンボル・キャラクターとなるドナルド・マクドナルドがデビューします。
すぐに国中の子供達の人気を集め、子供連れの家族がマクドナルドにやってくるようになりました。1965年には株式を公開しています。
それでは、マクドナルドの躍進の鍵となったレイの経営術をみていきましょう。
企業理念-品質、サービス、清潔さ、価値(QSC&V)と三脚の椅子
「品質、サービス、清潔さ、価値という言葉を口にする度に、煉瓦を積んでいったら、大西洋を渡る橋ができるかもしれません」
というクロックの言葉通り、品質、サービス、清潔さ、価値(以下QSC&V)という言葉は社内で最もよく口にされる言葉であり、マクドナルドの掲げるレストラン・ビジネスの理念です。
一定レベル以上の質の商品を提供すること(品質のQ)、スマイル0円に代表するホスピタリティーサービス(サービスのS)店舗内は言うまでもなく店舗の周辺の一定の範囲における清潔さの維持(清潔さのC)が満たされ、初めて一人の顧客に価値(V)を販売できる。
そういう考え方を示す言葉で、クロックは周知徹底させようとしました。
品質を確保するため、すべての材料は味見が行われ、運営システムに沿ったものが選ばされます。店がうまくいくと、大量の注文がでるため、サプライヤーの関心を引き、マクドナルドの材料に対する高い基準を守ろうとするようになります。
サプライヤーとの関係においても、クロックはパートナーシップを求めます。
一貫した効率のよい革新的なサプライシステムをフードサービス業界で構築しようとしました。サプライヤーとは何十年にもわたって繁栄する良好な関係を築き上げています。
実際、現在も取引のあるサプライヤーはレイ・クロックと握手をして取引を始めたのでした。
サービスでは、マクドナルドに行けばなにか楽しいことがある、と顧客が感じる店づくりを目剤しました。チップがなくてもお客にはにこやかなスマイルで接しますよ、とするスマイル0円はその例です。
清潔魔と呼ばれたクロックは、店の外観、駐車場、キッチンフロア、ユニフォームに至るまで気を配りました。「もたれかかるヒマがあったら、掃除をする時間があるはずだ」と言うのも口癖でした。
フランチャイズ店のオーナー/オペレーターやサプライヤーに対しては、3本の脚の椅子のたとえをつかいました。
椅子は3本以上の脚がないと立つことができないように、オーナー/オペレーター、サプライヤー、社員のどれが欠けてもマクドナルドは成り立たないと述べたのです。自分たちがいかに大切な存在なのかを知ってもらおうとしました。
起業家精神の信者でもあったクロックは、マクドナルドの理念の受け入れを求めるとともに、フランチャイズ店に創造力を発揮することを勧めています。
マクドナルドのメニューの中には、ビッグ・マック、フィレオフィッシュ、エッグマフィンなど、フランチャイズ店が作りだしたものが含まれています。同時に、フランチャイズ店にはQSC&Vの原則の遵守を求めています。
ハンバーガー大学
1961年、クロックは研修プログラムを開始しました。
ハンバーガー大学と呼ばれるようになるこの研修プログラムの目的は、QSC&Vをフランチャイズ店とオペレーターにマクドナルドの経営を成功させるために必要な方法を科学的に教えるものでした。
また、新たな調理法、冷凍方法、保管方法、提供方法を開発する研究開発所も備えています。これまでに80,000人以上がこのプログラムを終了しているといわれています。
晩年
クロックは慈善活動にも熱心でした。アルコール中毒、糖尿病などの研究と治療の支援をし、全米で4番目の歴史を誇るダートマスメディカルスクールに多額の寄贈を行っています。
1974年、クロックはマクドナルドの代表取締役の引退を決めました。昔から野球好きだったクロックは、サンディエゴ・パドレスのオーナーになります。ところが「野球よりもハンバーガーのほうが、将来性がある」と口走ってしまいました。
1978年、76歳のクロックは発作を起こし車いすの人となりますが、サンディエゴのオフィスにほぼ毎日出勤しました。
事務所の近くにあるマクドナルド店に鋭い目を向け続け、店長に電話をしては、ゴミを拾い、清潔な状態に保っているか、夜には明かりがついているかなどをチェックしました。
心臓発作で亡くなったのは1984年1月14日のことです。最後までマクドナルドのために働きつづけたのでした。
イノベーションと効率、品質の追求を続けたレイ・クロックは今日でもなおマクドナルドのインスピレーションの源であり続けています。
【参考URL】http://en.wikipedia.org/wiki/Ray_Kroc
http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,989785-2,00.html
http://franchises.about.com/od/mostpopularfranchises/a/ray-kroc-story.htm
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0CCwQFjAB&url=http%3A%2F%2Fwww.jil.go.jp%2Finstitute%2Fzassi%2Fbacknumber%2F2007%2F04%2F&ei=4_uSU7T7J4ik8AXH6oKoCw&usg=AFQjCNHj0_XE998Z-VbO0foBWt8XS2BAgg&sig2=1ILn8X-LSo7GsY58ayNgSw&bvm=bv.68445247,d.dGc
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&ved=0CDcQFjAD&url=http%3A%2F%2Fwww.mcdonalds.com%2Fcontent%2Fdam%2FAboutMcDonalds%2FInvestors%2F9497_SBC_International_JPN%2520final%2520061411.pdf&ei=XwSTU5PUDpTc8AWurYKABA&usg=AFQjCNGAofn6Y_RwlsUtk4MVbGVuh7fLDA&sig2=p81Rsw65MU18yGKFxkPp-w&bvm=bv.68445247,d.dGc
http://www.mcdonalds.com/us/en/our_story/our_history/the_ray_kroc_story.html
http://www.mcdonalds.co.jp/company/outline/rinen/rinen.html
マクドナルドは高品質だ!
そう思った時期が俺にはありませんでしたw
出た頃は革新的だったんだろうな。
昔の飲食店なんて質もサービスも安定せず、博打みたいな商売だったから。
チップ無しがどれだけ革新的だったかって日本では実感し辛い。
日本での成功なしに世界展開はなかった。それ以前の海外展開は不振で、藤田田の融資要請を断った三和銀行の支店長のほうが妥当な判断だったのだ。「マクドーナド」ではなく「マクド・ナルド」でなければならない。
藤田田の融資要請を断ったのは三和銀行の新橋支店長ではなく、住友銀行の新橋支店長です。
大阪出身の藤田氏は、個人商店時代からずっと住友銀行と取引をしていました。
藤田商店は、今も住友銀行(現三井住友銀行)の新橋支店の6Fにあります。
藤田氏は、その取引先である住友銀行にマックの経営資金の融資を依頼しました。
住友は、藤田商店ならいくらでも融資するが、ハンバーガーなどには融資できないと断りました。
怒った藤田氏は、住友銀行新橋支店長に今後一切マックには関わらないという念書を書かせます。
その足で、当時顧客拡大路線の三和銀行新橋支店に行き多額融資を得られます。
その後のマックの急成長に驚いた住友銀行は、藤田氏に再三取引を申し込みますが、念書を見せられて拒否されます。
やむなく、高層の住友新宿ビル完成時に住友の取引先として日本マクドナルドの本社を入居してもらいました。今、日本マクドナルドの本社は西新宿の別のビルにあります。
藤田田社長は東大法学部出身ですが、戦後の東大は共産主義者であふれていました。
学生細胞といわれた共産党の東大生組織のトップが読売新聞のボスになったなべつねの渡辺恒雄、参謀が日テレの氏家、日本のスーパ-の父と言われた渥美俊一、そしてその同級生だった藤田田というメンバーだったそうです。
私は、昭和47年に渥美俊一氏が経営する日本リテイリングセンターというコンサルタント会社の入社試験に合格したのですが、同時に日本マクドナルドの試験にも合格したため悩みましたが、「世界最大」というマックの人材募集広告に魅かれてマックの本部社員になりました。その頃のマック本社は、本社社員十数名が住友銀行新橋支店の6F の藤田商店に同居していました。まだ店舗数も全国で十数店でした。
米国イリノイ州シカゴに本社のあるマクドナルド本社とのやり取りは時差と戦いでし4た。
マクドナルドは金持ちしかかえなあ